白で構成されたその部屋は特別広い訳ではないがやけに天井が高く、ポッカリと穴が開いたかのような空間を頭上高くに作り出していた。隅の方に簡素な机と椅子が一つずつ置かれているだけで、他に物らしい物は何もない。天井からは大きめの丸いライトが一つ吊り下げられていて、白い光を静かに注いでいる。
白で統一されたこの空間に、一つだけ混じり合う色彩は黒だった。壁や天井を遮るように取り付けられた黒い鉄格子は、上の方が楕円を作るように曲線を描いていて正に大きな鳥篭そのもの。隔離された部屋の中、更に格子で隔離されて、そこに閉じ込められた鋼の鳥はささやかな抵抗をするかのように壁に向かって膝を抱えたまま籠の正面へ向き直る事はない。金の瞳が見上げるのは白い壁の高い位置に取り付けられた、格子の外側にある小さな窓。モノクロで構成されたこの部屋で、唯一その向こう側だけは切り取られた紙のように鮮やかな蒼が色付いている。
少し前までは研究員が一人、隅の方の机で何かを記していたが、その彼も先程部屋を出て行ってしまった為に部屋に残されたのは籠の中の少女一人だけ。尤も、彼女が研究員に興味を示す事はなかったし、向こうも彼女に言葉を投げる事はなかったのだから、誰がいてもいなくても同じだった。目覚めて最初に目が合ったような気がする研究員は強い意志を感じさせる眼差しを持っていて、彼になら彼女も多少の興味を持ったかもしれない。けれど、水槽から引き上げられた彼女の前にはあの眼差しを持った者など誰一人としていなかった。
この鳥篭に入れられる前
掠めるように耳に入ってきた研究員達の会話。
あの少年は『逆らった』為に、罰を受けたのだと。
その罰には、間違いなく自分が関わっているのだろう。
どんな少年だったのか、顔の作りまではよく分からなかった。
そもそも彼がこちらを向いていたのかすら、今となってはよく分からない。
ただぼんやりと霞む意識の中で覚えているのは、諦めの悪い強い眼差し。
そういえば。
地上で出会った、あの二人に少し似ていた気がする。
あの二人も、自分と関わった事で『罰』を受けた。
高い位置を長時間見上げ過ぎて首はとっくに痛くなっていたのだが、それすら態度には見せずに黙って小さな蒼を仰いでいると、ふいに背後で自動ドアが開く音がした。近付いてくる足音は二人分のようだったが、相変わらず少女は振り返る素振りを見せない。誰がいてもいなくても同じなのだ。どうせあの目を持った者など、この区域には残されていないのだから。
「白凪、悪いが席を外してくれ」
「はい。何かありましたらお呼び下さい」
「あぁ」
短いやり取りの後、足音の一つ――高いヒールの音が立ち止まり、向きを変えると部屋から出て行った。もう一つの足音は遠ざかる事なく単調に歩を刻みながら鳥篭に近付いて、振り返らない小さな背中に言葉を放つ。
「蒼姫(ソウキ)」
短く呼ばれた自分の名前にも少女は反応しなかった。感情の見えない声の余韻が静かに白い部屋を満たしてから溶けていくだけで、空色の頭は頭上を見上げたまま動かない。けれどそれは予想済みだったのか、或いはそんな事は大した問題ではなかったのか、銀の髪を持った青年は少女の態度にも全く気に留めずそのまま言葉を投げかける。
「怪我の具合はどうだ。体調は」
「…」
「考えなしに力を使うな。回復が間に合わないと命に関わる」
「…」
小さな背中に取り付けられた金属の翼を見つめたまま、青年の瞳が僅かに細められた。相変わらずそこに感情が見える事はなかったが、格子の向こう側の鳥を見つめて彼は静かに口を開く。
「それで。『飛べた』のか?」
「……」
「そうか」
返って来ない返事を否と解釈して、銀恢は一度だけ目を伏せた。尤も、彼に背中を向けたままの蒼姫がそれに気付く事はなかったが。
「やはりそれでは無理か。改良が必要だな」
「――っ」
一瞬、小さく息を呑む気配がした。窓を見上げたままの蒼姫がその体勢を崩す事はなかったが、小さな肩が微かにピクリと動いて青年の言葉に反応する。それは彼女が何も言葉を返さないながらに一応青年の言葉を聞いている証にもなった。
静かにその様を眺めた後、銀恢はその場で踵を返した。ロングコートの裾が一拍遅れて彼の動きについてくるように足元に規則的な弧を描く。
「また来る。あまり研究員の手を煩わせるな」
「――貴方はっ…」
ふいに弾かれたように立ち上がった少女は細身の身体を翻して向きを反転させると、白い床を踏みしめて格子の傍まで駆け寄った。ようやく振り向いた幼いその顔には、右の頬に大きな白いガーゼが貼られている。黒くて冷たい鉄格子を白い小さな両手で掴んで、彼女は歩き去ろうとしている青年の背中を睨み付けた。白いロングコートの背に記された赤い人工翼の印を、強い金の目線が射抜く。
「貴方は…私に何を望むの?」
白い部屋に響いた声は決して大きなものではなかったが芯の通った音を持っていて、格子越しに真っ直ぐ見据える黄金の瞳は相手を捉えて離さない。その声に足を止めた銀恢は、静かに、ゆっくりと肩越しに振り返った。彼が歩を進めた分だけ離れた位置から答えを待ってじっとこちらを見上げてくる瞳と同じ色を持つそれは、彼女と目線を合わせたようだったが、何故だか奇妙な方向を見ているような気がして少女は僅かに眉を顰める。
目が合っている筈なのに、どこか逸れている。
それはまるで、彼自身が違う次元に存在しているかのように。
平坦な色を宿した瞳が蒼姫の強い視線を受け止めたのか、或いは受け流したのかは分からなかった。分かる事は、彼が感情的なものを無感情のもので静かに返したという事だけ。
「――蒼を掴む翼を」
その音から彼の真意を読み取る事は蒼姫には出来なかった。たった一言で答えを返した青年はそれ以上は何を言う事もなく、今度こそ振り返らずに部屋を出て行く。取り残された少女は鉄格子を握り締めたままゆっくりと頭を下げて、黙って白い床へ目線を落とすばかり。白い照明が頭上からその様を照らし続け、灰色に近い薄いモノクロの影が動かない足元に静かに張り付いていた。
***
いつかの記憶を閉じ込めたその殻は
深い紺碧の色を宿して、殻の内側を護り続ける。
どんな犠牲も厭わない。
たとえ自身を犠牲にしても
あの願いが空へ届くのなら、それで。
いつか、殻が剥がれ落ちてしまっても
忘れない。
忘れはしない。
遠い日に繋いだ、翼の約束を。