>> ソラカゴ TOP > 小説置場 TOP

風が静かなのは、それを掻き回す翼がないから。

翼が静かなのは、まだ眠っているから。






気まぐれに生まれた一粒の雫が

傷だらけの翼を呼び起こす。










act 03 : 灰空の階段



それは、純粋にただの偶然。溜まった雨水が許容量をオーバーして零れてきたものだった。
天井から落ちてきた一滴の水粒は暗い周囲の景色を表面に映り込ませたまま、仰向けに転がった少年の額に接触して弾けた。その小さな衝撃に、死んだように止まっていた幼い指先がピクリと動く。
「…んぁ……つめ、て…」
意識もハッキリしない内から掠れた声で感じたままを声に出したのは本能的なものなのか。時計のベルに起こされた目覚めの悪い子供のように、一旦強く目を瞑って顔を顰めてから彼はゆっくりとその目を開けた。暗い空間に解放された色は鮮やか過ぎる程の空色で、ぼんやりと開いたツリ目がちの瞳をパチパチと数度瞬かせた後両手でゴシゴシと目を擦る。
「…へぁ?何処だここ…」
ぼやけた視界に入ってきたのは暗い天井。見覚えのない景色に胸中で首を傾げつつも、少年はいつもの癖で腹筋の要領で跳ねるように上体を起こした。――瞬間、背中に強烈な痛みが走って大きく目を見開く。
「いっ――!?」
反射的に伸びた背筋は次の瞬間丸くなり、その後暫く伸びたり縮んだりしながらゴロゴロと床を転げのたうち回る羽目になった。涙目で背中を擦りながら改めて(今度は慎重にゆっくりと)上体を起こし、座り込んだままぐるりと周囲を観察する。

冷たい石造りの床に照明もない暗い天井。淀んだ空気を凝縮したかのような狭い空間に彼以外の人気(ひとけ)はなく、その代わりにどこからやって来たのか小さな鼠が一匹目の前を横切っていった。その動きを何となく目で追っていくと、普段は見る機会のないようなものが視界に入ってくる。
空間を隔離するかのように一定感覚を開けて縦に伸びる錆びた鉄の棒――鉄格子。

「はぁ!?」
大きく目を見開き、ガバッと跳ねるように立ち上がって(背中が引き攣るように痛んだが、それどころではなかった)少年――晴は、張り付くように鉄格子を掴むと身体全体を使ってその鉄の棒を思い切り引っ張った。当然ながらその程度の衝撃で格子が動く事はなく、錆びた鉄の欠片が手の平にこびり付いただけ。ぽかんと他人事のようにその手の平を見下ろして、今の自分の状況をイマイチ回らない頭で整理する。


えーと、えーと。
俺確か、変な武器使うオバちゃんに殴られて踏まれて蹴られて。
紺那は薬が身体に回ってて。

それから、アイツ――


「あ」
きょとんと瞳を瞬かせて、晴は思わず声を上げた。しまったな、と独りごちて開いたままの手の平を軽く握り締める。
ふいに思い出したのは鮮やかな黄金の瞳と微風に揺れる空色の髪。小さな背中から伸びる金属の翼を持ったあの少女を何と呼んだらいいのか、少年はまだ知らなかった。
「アイツの名前、聞いてねぇや」
それから俺も、自分からは名乗ってない。
そんな今更な事を思いながらも、閉じた手の平を下ろしてゆっくりと視線を巡らせる。
「んでも、何で俺こんなトコに…紺那どこ行ったんだろな…」
首を捻るとコキ、と小さな音が鳴った。分からない事だらけの中、自然といつもの癖で後ろに回った手は腰の辺りであるべき『何か』を掴み損なう。疑問符を浮かべてそのまま数度定位置で手の平を閉じたり開いたりを繰り返すが、当然何もないそこでは空しくも空気を掴むばかり。ようやくそれを認識して、幼い顔がサッと蒼白に染まった。
「…ない…」
ぐるんと勢い良く身体を捻って確認するも、状況が変わる訳でもなかった。いつもあるべきものが、あるべき場所に、ない。
「ない!俺のお菓子入れ!…と、月刃!!」
仮にも愛用武器がお菓子の次か、と紺那が聞いたら呆れてツッコミを入れそうな叫びの後再び鉄格子にジャンプして張り付く。今度はかなりの勢いだった為、ガシャン!と金属音が暗い廊下に響いた。
「ふっざけんな!俺のお菓子と月刃返せっつーの!!こっから出せーーー!!」
音量最大の幼い響きは廊下中に響き渡って反響する。と、それを聞きつけたのか暗い廊下の端の方から看守が二人駆けつけてきた。傭兵のような武装はしていないが、二人共棍のような長い棒を腰から下げている。
「オイ、囚人269!煩いぞ黙れ!」
「俺は囚人じゃねぇっつーの!いーから出せーー!」
「やかましい!喚くな!!」
鉄格子に飛びついたまま身体を揺すると、ガシャガシャと耳障りな金属音が廊下に響き渡る。あまりにも聞く耳を持たないお子様全開の囚人を前に看守は小さく舌打ちを零すと、腰から引き抜いた赤銅色の長い棒を問答無用に鉄格子の隙間から突き出した。両手で鉄格子を掴んで、更に足まで格子に掛けている晴にそれを回避する術などない。結果、突き出された棍を真正面から素直に腹で受け止める羽目になってしまった少年は、潰れた声を漏らして鉄格子から引き剥がされそのまま床に転げ落ちた。
「な、何すんだ…っ」
「煩い!…少し痛い目を見た方がいいようだな」
腹を押さえてゲホゲホと咳き込みながらも涙目で睨みつけてくる空色の瞳を見下ろしながら、看守の一人が牢の扉を開ける。金属が軋むような耳障りな音で開いた扉を見上げる晴がフラフラとよろけながら立ち上がった頃には、二人の看守の内、視界に残っていたのは一人だけになっていた。視界から消えたもう一人は晴の背後に回り込んで、少年の動きを封じるように脇の下から腕を回し小柄な身体を羽交い絞めにする。
「はぁ!?何なんだっつーの!放せよ!」
ジタバタともがくものの、ガッチリと固定された身体は動かない。小柄である者の大半がそうであるように、晴は大して力が強い訳ではなかった。故郷では同年代の少年達にすら腕相撲で勝った事がないのに、成人男性の押さえ付ける力を撥ね退ける事など出来る筈もない。それでも諦め悪くもがいている晴を間に挟んだ看守達は一度お互い目配せした後に、少年の正面に立った方の看守が赤銅色の棍を構えた。それはたった今、晴を鉄格子から突き落としたもの。身動きの取れない状態で相手の攻撃意思を認識した幼い瞳がぎょっと見開く。
「心配するな、死にはしないさ。数本折れるかもしれないけどな」
「んなっ…!やめ…」
「しっかり押さえてろよ!」
そのまま右足で踏み込んで、強い力で押さえ付けられた少年の腹を目掛けて渾身の力で棍を叩き込む。

―が


「――ナメんなっ!!」
「!?」


棍が腹に届く直前、力一杯その場で床を踏み切った小柄な身体が逆さまに宙に投げ出された。押さえ付けられて動かない肩を基点軸にして、まるで鉄棒のない逆上がりのように床を全力で踏み切った爪先から順に世界を駆け上がる。それはあまりにも予想外の動き。ふいにいなくなった目標物に戸惑い看守が目を見開くが、一度ついた勢いは止める事など出来ない。勢いのままにそのまま叩き込んだ先は狙いを定めていた晴の腹ではなく 後ろで少年を羽交い絞めにしていた同僚の腹で、彼が声もなくズルリと崩れ落ちる事で 一部固定されていた少年の身体全てに自由が還った。
「…んのガキ…!」
自由になったとはいえ、後はどうせ重力に従って落ちてくるだけ。そこを叩けば良いと棍を握り直した看守は、次の瞬間己の考えが至らなかった事を思い知る。あまりにも常識外れの事態には当然の事ながら常人はついていけない。
「――!?」
身動きが取れない筈の空中で――しかもそれ程高さも滞空時間もある訳ではない空中で、晴は身体を捻って更に高く足を上げたのだ。逆さまに揺れる鮮やかな緑色の髪が、近付いた床に揺らぐ影を作り出す。このまま頭から落下してもおかしくない筈なのに、もしくは体勢を崩して転げ落ちるのが普通だろうに、異常な程に優れたバランス感覚で普通では考えられない体勢を保った少年はピンと伸びた爪先だけに全神経を集中させてスッと息を吸い込んだ。最大限に、それは殆ど床から測って180度近く振り上げられた足は落下スピードも加わって頭上から看守に襲い掛かる。
「で、りゃあっ!!」
「――っ」
鈍い音が響き渡って、その一拍後に看守の身体がズルリと崩れ落ちる。彼の手の中から抜け落ちた棍が乾いた音と共に床に転がる中、硬い靴底で思いきり踵落としをくらわせた晴は、流石に着地の事までは考えていなかったのかそのまま床に転がって尻と背中を打ち付けた。けれどそれは彼的に大した痛みではなかったらしく、ダメージを感じさせず即座に跳ねるようにひょこんと立ち上がると細い肩をコキリと鳴らす。
「へっ、ザマミロ!俺の勝ちっ!」
防ぐ事も避ける事も、あまりの非常識っぷりの前に考えられなくなってしまったのだろう。踵落としの直撃をくらった看守は白目をむいて気絶してしまったようだった。同僚に棍で殴られた片割れの方もうつ伏せたまま動かない。指先が時折痙攣するように動くので恐らく命に関わるような怪我ではないだろうと勝手に推測した晴は、二人の看守を見下ろして僅かに首を捻った。ふいにその場にしゃがみ込むと、看守の手から抜け落ちた赤銅色の棍を拾う。ブンブンと振り回してみると、それは彼が愛用しているものよりも随分と軽くて頼りないような気もした。
「…まぁ、仕方ねぇか」
何もないよりかは多少自分に合っていなくても持っていた方がいい。ここが何処なのか、自分がどんな状況下にあるのか、それすら分からないまま行動を起こすのだから尚更の事。そもそも愛用武器(とエネルギー源である菓子類)までいつの間にか奪われてしまったのだ。危険な場所である事に間違いはないのだろう。

さて、と立ち上がって片手を腰に当てる。グッと上体を逸らして背筋を伸ばすと、背中の痛みがいつの間にか大分治まっていた事に気付いた。普通は痛みの上にダメージを重ねたのだから酷くなっていそうなものだが、どうやら彼の場合回復力が異常に高く、それに加えて気持ちの高まり具合も影響しているらしい。大抵、目標が出来ると行動は起こし易くなりそれに比例して元気も出る。
「帰んねーと。あと、お菓子と月刃見つけねーと」
紺那は恐らく何かあっても自分で切り抜けられるだろうから、正直な話あまり心配はしていない。だから、ここから動く理由は自分の分だけでいいと思った。
奪い取った棍を片手に、開きっ放しになっている牢の扉を潜り抜ける。どうやらここは廊下の突き当たりのようで、行き止まりの壁を背にすると一本の細い通路を挟んで両側に鉄格子が延々と続いているのがよく分かる。開いている扉は自分が今迄入れられていた牢だけで、長く続く廊下の先の方は暗くてよく見えなかった。天井では切れかけの照明が早い点滅を繰り返していて、周りに小蝿のような小さな虫が集まって飛んでいる。一定感覚を開けて設置されているらしいそれは、既に切れてしまって照明の役割を果たしていないものも少なくなかった。

ある意味とても分かり易いスタート地点だ。
進むべき道が一本しかない。

一つだけの選択肢を選び取り、体勢を落として駆け出そうとしたその直前。


「――やめときな、坊主」


自分と看守以外の気配は感じなかった空間に、突如生まれた人の声。
聞き覚えのない音を持つ声の忠告に――というよりかはその声の存在自体に驚いて、晴は踏み出しかけていた足に急ブレーキをかける羽目になった。




prev (act:02)  top  next