今から20年程前、ゴミ溜めのようなスラム街の片隅で、見た事もない『本物の』空に魅せられた少年達がいた。汚染された空気の中でもその夢は濁る事なく、雑草のように強くしぶとく這いずって生きてきた彼らは、長い時間をかけてついに自分達だけの翼を完成させる。汚れた小さな手の平はいつしか夢を掴む大きな手の平へ、その手をかざしていた空の色は重苦しい灰色から突き抜けるような蒼へと変わっていった。
雲海を渡る風の翼。
風竜(ウインド・ドラゴン)と名付けた飛空艇で世界を飛び回る彼らが、『空賊』として政府や世間に認識されるまでにはそう時間はかからなかった。
逆風さえも取り込んでしまう、厄介な一陣の風。
ゴミ溜めの一角から始まった彼らの夢、空賊『疾風(ハヤテ)』の名前は今や世界中に広まっている。
***
内部にいくつかの部屋が存在する飛空艇『風竜』において、『会議室』という名がついている一室は実のところその役割をまともに果たしている事は殆どない。簡単な打ち合わせ程度なら乗組員達はリビングで簡単に終わらせてしまうし、元々会議らしい会議には縁のない隊なのだ。その証拠にこの『会議室』は普段は双子の兄弟が悪戯会議に使っていたり、胡桃のかくれんぼ場所になっていたり、女性陣の雑談場所になっていたり、晴が室内一杯に紙飛行機を大量に飛ばして紺那に叱られていたりと、かなり好き勝手に使われている。そういった訳で、この場が本来の機能を果たしているのは随分久々という事だった。
「――藤華の話では」
トン、と部屋の中央に置かれた丸テーブルの表面を人差し指で叩いたのは副長、柘榴(ザクロ)。サラリとしたストレートの黒髪を一つに纏めた優男風の青年だが、百発百中の銃の腕前を持つ男で、更にその性格の強かさはこの船の誰もが知っている。男性のものにしてはしなやかで細い指をテーブルにつけたまま、漆黒の瞳がその場の全員をぐるりと見渡した。
「晴と紺那が消えたと思われるポイントで地面の抉れた跡を見つけたらしい」
「抉れた跡?王都の地面は土じゃねぇだろ?」
亀裂は入るだろうが簡単には抉れない、と鋭い瞳を訝しげに細めたのは整備士長、白銀(シロガネ)。仕事を中断して来たのか首からはタオルを引っ掛け、同じく首にぶら下ったゴーグルは微妙に煤で汚れていた。右手で頬杖をついた体勢のまま視線を流すと、それを受けて柘榴は静かに頷く。
「正真正銘、厚い石の地面が抉れた跡だったそうだよ。俺が見た訳じゃないけど、藤華の報告を信じようと思う。…それと、これを」
コロリとテーブルの上を転がったのはいくつかの木片で、柘榴がそれを取り出した瞬間最初に反応したのは白銀だった。青紫の瞳を鋭く細め、僅かに身を乗り出す。
「紺那のものか」
「その通り。さすが白銀、気付くの早いな」
整備士長である白銀は武器に関して専門職という訳ではないが、武器を構成する材質については知識が深い。それに疾風のメンバーが所有する武器の大半は、職人都市アーティクトに住む彼の従弟が手がけたものであるのだ。専門分野が違うとはいえ、他のメンバーよりも素材の見分け方には精通している。
柘榴の手を離れた木片の一つを手に取って眺めた後、白銀はその切り口を指の腹でなぞって眉を顰めた。
「…何だコレ。かなり特殊な武器で切断されてんな」
「ちょっと貸してよ、白銀」
ふいにテーブルの向かい側から伸びてきた白い手の主は料理長、翡翠(ヒスイ)。隊長の妻であり三児の母親でもある彼女は鮮やかな新緑の目線を渡された木片へ落として、その目は上げないまま艶やかな唇を微かに動かした。
「…紫桜音だわ」
「紫桜音?あのフリー傭兵の?」
「あん?誰だそりゃあ」
翡翠の小さな呟きに反応した柘榴と違い、白銀は聞き覚えのない名前に瞳を細めただけ。特に機嫌が悪い訳ではないのだが、元々お世辞にも愛想が良いとは言えない顔立ちをしている為に、彼が眉を顰めると妙に機嫌悪そうに見える。勿論、今更そんな誤解をする者はこの艇には乗っていなかったが。
「あぁ、白銀は風竜に残ってる事が多いから知らないか。昔…まだ橙や茜が生まれてなかった頃、たまに戦(や)り合ってた傭兵だよ。最近は見なくなったと思ってたけど…そういえば翡翠は妙に執着されてたよな」
「そうね、しつこい女よ。金持ちの間を転々としてるフリーの傭兵で、自分より若い女と強い女が嫌いなの。しかもヒステリックだし会うとサイアクね。もう二度と会いたくなかったわ」
「…あ、そ」
容赦のない棘のある物言いの前には白銀もぎこちなく目線を逸らす事しか出来なかった。女同士の相性事情にはなるべく首を突っ込みたくない。そんな面倒な事に巻き込まれるのは心底ごめんだ。昔の天敵(?)の名前を思い出した事で微妙に機嫌が悪くなったらしい翡翠の気を逸らすように、柘榴が話題を引き継ぐ。
「でもよく分かったな。紫桜音の仕業って」
「切れ味がね、半端ないのよ。これが出来るのはあたしが知ってる限り、空賊以外では紫桜音くらい」
細い指で木片をなぞってから細い肩を竦め、目線を上げる。
「紫桜音がこの都市に絡んでるのなら話は早いわ。あの女の雇い主は多分コランダムよ」
「コランダムか。…確かに。金持ち狙いなら納得だな」
「王都の組織ん中で一番金持ってるからな。傭兵も随時募集してるだろうし」
顎に手を当て頷く柘榴と短い銀髪をガシガシと掻く白銀に交互に目を向けた後、翡翠は彼らから少し離れた位置で黙って状況を流し聞いている老人へ目を向けた。大きな世界地図が貼り付けられた壁に椅子ごと凭れ、黙って腕組みをした彼は瞳こそ開いているものの寝ているのではないかと思う程大人しい。
「鶸(ヒワ)?さっきから大人しいわね。貴方の意見は?」
「パス。ワシは聞く専」
ようやく口を開いたかと思えば、実に他力本願な台詞。ヒラリと皺だらけの手を振る様に白銀の眉が吊り上がる。
「オイコラ、ジジィ。この場にいるからにはてめぇの意見持てよ」
「クソガキが。随分生意気な口じゃないか」
ゆっくりと上げられた目線は老いても尚鋭く、そのままぐるりと目線を投げた鶸はフンと鼻を鳴らせてから口の端を吊り上げて笑った。隙間から覗く金歯がギラギラと光って、それがどうも癇に障ったらしく白銀の眉間の皺が一本増える。
「意見だと?ワシの意見は元よりトップに丸投げしておるよ」
離れた位置から目線を投げた先、窓を背に黙って座る、顔に大きな傷を持つ男へ真っ直ぐに声を投げ付ける。
「なぁ、緋燕(ヒエン)?お前の心は決まっておるじゃろう?」
つられるようにその場の全員が空賊疾風の隊長、緋燕へ視線を集める中、緩やかに上げられた空色の目線は全員分の視線を受け止めるように濃く色付いて――
「――パパッ!!」
緋燕が言葉を音にする前に突如勢い良く開け放たれたドアは、その場の流れを無遠慮に断ち切った。流石に驚いてドアの方に集まった大人達の視線を潜り抜けて、小さな乱入者は真っ直ぐ緋燕の元へ駆け寄ってくる。と、そこに新たな乱入者が二名追加。
「胡桃!」
「駄目だってば胡桃!今、会議中なんだから!」
バタバタと駆け込んできた双子の兄弟はそのまま妹の後を追おうとして、けれど父親である緋燕の元へ辿り着いたのは末妹の胡桃だけだった。胡桃と同じように大人達の間を擦り抜けようとした橙と茜は、瞬時に伸びた白銀の手に首根っこを掴まれて床から足の裏を引き剥がされる羽目になる。
「オイコラ、ガキ共。何してんだお前ら」
「し、師匠!ごめんなさい!」
「でもオレ達は止めようとしたんだ!信じて!」
うんざりと見下ろす青紫の瞳を低い位置から見上げて、ジタバタともがきながら許しを請う。ちなみに白銀は彼らの師になった記憶も弟子を募集した記憶もないのだが、整備士という職に興味を持っているらしいこの双子が整備士長である白銀の事を勝手に尊敬し、師と呼んでいるのはもう随分前からの事だった。やめろと言ったところで意味のない事ならば、やめろと言うのももはや何だか面倒臭い。
「橙、茜。どういう事なの、これは」
座っていた椅子から立ち上がり両手を腰に当てて、向かい側の席で白銀に掴まった少年達を厳しい視線で一瞥するのは彼らの母親。放任のようでしっかり躾に厳しい彼女には息子達も頭が上がらない。
「か、母さん…」
「オレ達…その…」
普段無駄に口達者でも所詮は母親に弱い10歳の子供。ごにょごにょと口篭ってしまった少年達をようやく床へ下ろしてやると、白銀はやれやれと首筋を掻いた。当の双子はといえば床に下ろされてももう胡桃の後を追おうとする事はなかったが、バツが悪そうにお互いの顔を見合わせて黙り込むばかり。そんな彼らのやり取りを横目で眺めた後、柘榴は目線を流すように奥の席の父娘へ目を向けた。椅子に座ったままの緋燕の足にしがみついて顔すら上げないのは、5歳になる彼の愛娘。苦笑気味に笑って、緋燕がその小さな身体を抱き上げる。
「胡桃!どしたっ?兄ちゃん達に苛められたか?」
「「しねぇよ、んな事!!」」
綺麗に重なって全力で飛んできた否定の声は息子達のもの。気持ち的に追い詰められながらも、これだけはハッキリ言い切る辺りは彼ららしい。実際、異常な程に妹を可愛がっているこの兄弟は、胡桃を苛める者を叩きのめす事はあっても自らが苛める事は絶対に有り得ない。それはこの艇に乗っている全員が知っている事実。
「パパ…」
「ん?」
ようやくゆっくりと視線を合わせてきた大きな瞳は父親譲りの明るい空色。その瞳に涙を一杯に浮かべたまま、震える幼声が願いを紡いだ。
「晴ちゃんと紺那ちゃんを…たすけて」
この小さな少女なりに、ただただ心配しているのだ。まだ幼くてやれる事は限られているけれど、それでも彼女もまた、空賊疾風の一員で仲間だから。
零れた声は半分掠れていたけれど確かな想いを音にして、胡桃はくしゃりと顔を歪めて泣き出してしまった。小さな手は父親の服の端を掴んで放す事なく、しゃくり上げる度に耳の隣で二つに括った黄緑色の髪の先がひょこひょこと揺れる。愛娘の必死の訴えに緋燕は一瞬空色の瞳を見開くと、その目を緩やかに細めた。一本の細い線になった瞳はそのまま明るい笑顔を零して、大きな手の平が娘の小さな身体を抱き締める。小さな頭をポンポンとあやすように撫でながら、紡いだ声はハッキリとした響き。
「当たり前だ。任せとけ、胡桃」
それは何よりも強く、何よりも確かなもののように感じる。
何故だろう、何の確証もないのに無条件に信じてみたくなるような。
「…緋燕、そろそろ隊長指示を」
ゆっくりと立ち上がった柘榴は穏やかな瞳を緋燕へ向けて、緩く笑う。やたら聡い彼の事、緋燕が出すであろう指示の内容も分かっているのだろうが、敢えて隊長である者の口から言わせる事に意味があると彼は考えているようだった。穏やかに笑う表情はそのままに、背中を向けた状態で今度は後ろに向けて言葉を放つ。
「廊下の三人も、聞いておくといいよ」
「……バレてら」
胡桃と双子を追ってきたのか、開け放たれたままのドアの陰からバツが悪そうに出てきたのは藤華、朱璃、紅音の三人。呆れたように嘆息したのは白銀で、鶸は早くに気付いていたのか肩を竦めて笑い、翡翠は仕方ないわねと言いながら苦笑を零す。結局、召集もかけていないのに今現在この艇に乗っているメンバーの全員が集合したところで、緋燕は胡桃を左腕に抱えたまま立ち上がった。燃えるような真紅の髪が揺れて、額にかけたゴーグルのガラスが照明の光を反射して輝く。
「準備が出来次第、鋼の塔に乗り込む!各々出撃準備を頼んだ!」
彼は具体的な指示を出す事は少ないが、各々は自分の役割を自覚している。いつものように短い指示を聞き入れて、胡桃を除くその場の全員がスッと同時に右手を上げて敬礼のポーズを取った。それを了解の証と解釈して、空色の瞳が笑って敬礼を返す。間近でそれを見た胡桃も、涙に濡れた瞳で緋燕を見上げて見様見真似で小さな右手を上げて敬礼のポーズを取った。
「緋燕、相手は今迄と違う。政府と直結している巨大組織だ。それは分かってるな?」
「おぉ、任せとけ!」
「ホントかよ…」
念を押した柘榴の言葉にも緋燕は明るく笑って頷くだけ。それにうんざりと嘆息したのは白銀で、この関係は彼らが幼い頃から変わらないものの一つでもあった。
多分、いや、間違いなく分かっていないのだこの男は。それくらい幼馴染の勘など使わなくても分かる。けれどそれは分かっていないというよりかは、そこは彼にとって特に問題ではない、それだけの話。にかっと笑う、問答無用の明るい笑顔は いつだって不可能を可能に変える半ば強引な風を巻き起こす。
「取られたモンは取り返す!仲間を迎えに行って何が悪ぃ?」
単純で明確だからこそ、その翼は折れない。
絆が繋ぐその先へ、風の翼が緩やかに広げられた。