世界を覆う灰雲を突き抜けた建造物は今現在、鋼の塔だけであるが、突き抜けた者なら意外と多い。『飛空艇』と呼ばれる、空を翔ける巨大な船が開発されたのは今から50年程前の事。開発当時、別都市に一度に多くの物資を運ぶ為の交通手段として用いられたこの船は、所有する為には基本的に政府の許可が必要となる。しかし飛空艇開発の技術を外部に持ち出した者によって世に広まった設計図は、個人的に船を所有する事が出来る者を生み出す結果に繋がった。政府からの厳しい取締りのせいもあり、まだそれ程数は多くないものの、厳しい目を潜り抜けて青空へ旅立った者は確かに存在する。政府は彼らを賞金首に指定し、一纏めにしてこう呼んだ。
規律を乱した無法者――空賊、と。
藤華と橙、茜が晴達の『忘れモン』を抱えて戻ってきた後、彼らは暫く郊外に留まったまま誰一人として飛空艇の外へ出る事はなかった。隊の責任者達に自分が『見てきた』物事を伝えた藤華は緊急に開かれた隊会議には呼ばれる事なく、けれどその扱いに特に不満を抱く事もなく会議が何らかの答えを出すのを待っていた。元々彼らの開く会議は毎回大して時間を取らないものであったし、小難しい事は考えずに行動を起こすという無謀な結果が出る場合も多々あった。そんな会議に自分が出席したところで色々とツッコミを入れたい気分を増幅させて耐える羽目になるのだろうから、出席しなくていいのならそれでいい。
王都スティリックの郊外に無断で停泊しているこの艇は、今のところ役人には見付かっていないようだった。見通しの良い、開けた大地は灰色混じりの彩度の低い茶色で、乾燥してところどころひび割れている。遠巻きに見る家々は皆同じ鉛色の箱のようで、吹き抜ける風さえもどこか無機質な鉄の臭いがした。渦を巻くような暗い雲の中心にはそこを突き抜けるように高い塔が聳えていて、これだけ離れていても嫌になるくらいの重圧を感じる。
厚い灰雲に遮断されて太陽の光が届く事のない飛空艇の甲板で、空に向かって吐き出した煙草の煙が奇妙な形を描く。全く面白味のない景色をぼんやりと眺めながら両腕を艇の外へ投げ出すように引っ掛けて煙草をふかしていると、軽やかな足音が背後から近付いてきた。
「藤華!ここにいたのね!」
タン、と木製の床を踏みしめるのはこの船の航空士。普通に歩いていても不思議な事にどこか踊るような軽やかさを感じてしまうのは、彼女が『舞姫』の名で呼ばれる事が多々あるせいか。年齢は20を過ぎた辺りの筈だが、妙に顔立ちが幼く体格が小柄な事もあり実年齢よりも下に見えてしまう。肩口で揺れる赤茶の髪が隣に並ぶ前に、藤華はまだ吸い始めたばかりだった煙草を携帯灰皿に押し付けた。長いままの煙草を何となくそのまま弄んでいると、近付いた真紅の瞳が下から藤華の顔を覗き込む。
「相変わらず一人でしか吸わないのね」
「そーゆー主義なんで」
藤華はこの艇で唯一の喫煙者であるが、誰からも禁煙しろとは言われていないし喫煙を制限されてもいない。肩身が狭いという事もないのだろうが、何故だかこの青年は誰かと一緒にいる時に煙草を吸う事はなかった。吸う場所も甲板など開けた空間で吸っている事が多く、一人で吸っている時に近付くと今のようにさっさと消されてしまう。
「まぁ、藤華が頑固なのは今更だし、その事はおいといて」
「何気に扱い酷くねーか…」
火を消した煙草を片手にうんざりと呻く横顔を眺めてから、少女は僅かに瞳を細めた。幼さを残す明るい雰囲気がふいに変わって、真摯な瞳が青年を見上げる。意図的か無意識か、逸れたままの目線を前にしても尚怯む事はなく、少女は小さな唇を慎重に動かして自分がここに来た用件を質問として告げた。
「藤華。何を『見て』きたの?」
「…隊長と副長に話した通り」
「私は聞いてないもの!…知ってるのは」
そこで一度、藤華から目線を外す。言葉を探すように視線を彷徨わせた後、再び藤華を見上げた真紅の瞳は嘘を許さない真っ直ぐな眼差し。
「…晴君と紺那ちゃんに、何かあったって事だけ」
充分知ってんじゃねぇか、などと思いながらも その瞳を敢えて見返す事はせずに藤華は浅く嘆息を零した。
晴相手なら、適当にあしらってはぐらかす事が出来る。
紺那相手なら、延々はぐらかしていると向こうが呆れて面倒な追求はしてこない。
双子兄弟相手なら、汚い手口だが大人の重圧で黙らせる事が出来る。
ただ、この娘相手だと非常に厄介だ。
普段なら簡単にからかわれてくれるのだが、この目をしている彼女に誤魔化しは通用しない。どんなにはぐらかしても しつこく食い下がってくる。重圧をかけたところで臆するような性格ではない。
脅しも嘘も誤魔化しも、全ての逃げ道が塞がれてしまった。
「…朱璃(シュリ)」
仕方なく短く名前を呼んで、藤華は首筋を軽く掻いた。じっと目線を逸らす事なくこちらを見上げたままの瞳に、ようやくノロノロと目線を合わせる。けれど、続いた言葉は彼女の質問に対する答えではなかった。
「チビ共どうしてる」
「え?橙君と茜君?」
思わぬ切り返しに拍子抜けしたのか、大きな瞳がきょとんと瞬く。彼女の瞳がパチパチと数回瞬く様をぼんやり眺めていると、答えを助けるかのようにスルリとさり気なく新たな声がこの場に加わった。
「リビングで胡桃(クルミ)ちゃんと一緒にいてあげてるみたいだよ」
藤華の質問に答えたのは彼の目の前の朱璃ではなく、甲板と室内を繋ぐ扉の先から。声の出所を追うように開かれた扉の方へ朱璃と共に向き直って、そこで甲板へ出てきた仲間の姿を確認してから藤華は思わず苦笑を零した。…何だ、打ち合わせもしていないのに20代集合か。
「紅音(クオン)。お前も来たんか」
「藤華が何か『見て』きたって。朱璃ちゃんが言ってたからね」
「…朱璃。お前もうちょっと静かに行動出来ねぇのか…」
「だって!黙っておく方が悪いのよ!」
ムッと口を尖らせた朱璃に苦笑を漏らすのはこの艇の船医。藤華と同年代でもあるこの青年は、医者のくせに常に誰よりも己の顔色が微妙に悪い。痩せた腕を持ち上げてポンポンと朱璃の赤茶の髪を撫でた後、紅音は藍色の瞳を藤華へと向けた。人の良さそうなその瞳に、珍しく相手を試すような色が混じっている。
「隊長達の会議が終わる前に、僕らに話を聞く権利は?」
「……あーもー…分かった分かりました。負けです負け。俺の負け」
二対一では勝てる気がしない。そもそも大層情けない話だが、今の朱璃一人にでも勝てる気がしなかったのだ。降参、と両手を挙げて白旗を振った藤華の様に朱璃と紅音は笑い合うと片手同士をパチンと合わせた。こんな時ばかり無駄に息ピッタリで厄介極まりない。特に紅音は普段から肝が小さくて意外と無鉄砲な朱璃にアタフタしている筈なのだが、よくよく考えれば彼は朱璃の(というより女性陣の)敵に回った事は一度もなかった。同年代といっても言ってしまえばそれだけで、初めから味方なんか期待出来なかったのだ。
***
話、といっても実のところ藤華に話せるだけの材料は大してないようなものだった。そもそも彼は例の『忘れモン』を見付けてそこから自分なりに勝手な推測を張り巡らせただけで、実際に何かを『見た』訳ではないのだ。今ここにある事実は晴と紺那が行方不明であるという事と、恐らく彼らが手にしていたであろう物が無残に散らばっていたという事だけ。そこで何が起きたかなんて、当事者達にしか分からない。あんな人気のない路地裏で起きた事件に目撃者も期待出来ないだろうし。
「…そういう訳で。実は俺にもよく分からん」
朱璃と紅音の要望通り 『見た』事を自分の推測も交えつつ簡単に話した後、藤華はアッサリとそう言い放って肩を竦めてみせた。話の中身を自分の中で整理しているのか、何かを考えるように顎に手を当てて僅かに首を捻ったのは紅音。
「もしそこで二人が連れ攫われたとなると、相手はそれなりの実力者だね。二人は決して弱くない」
「まぁ、紺那はともかく晴を捕獲する分には難しくねぇとは思うけど。アイツ単純だし罠にかかり易いだろ」
サラリと後輩を動物扱いして、ヒラリと片手を振る。
「一応アイツらも政府に突き出しゃあ金になるワケだしな。狙われる理由ならいくらでもある」
「…藤華。そういう言い方は…」
「事実だろ。お前も分かってその印つけてる筈だ」
顎で指したのは紅音のバンダナに記された隊のマーク。藤華のジャケットに記されたものと同じその印は、彼らが空賊である何よりの証になる。政府から追われる事になっても、この印を外す時は恐らく彼らの誇りが折れる時だけ。それを分かっているからこそ、容赦なく突き放したような藤華の物言いに紅音は返す言葉を見つける事が出来ず足元へ視線を落とした。微妙に気まずい空気の中、話を聞いてから今迄ずっと黙っていた朱璃がポツリと声を零す。
「…関係ない」
俯いてしまった紅音と入れ違いになるように、赤茶の頭がふいに持ち上がった。生温い風に煽られてサラリと揺れる髪を視線で追いかけるように、紅音の頭も自然と持ち上がる。けれどそれに視線を向ける事はなく、凛とした眼差しは二人の青年達を通り越して甲板から見える世界を正面から真っ直ぐと見据えた。
「関係ないよ、そんなの。誰が相手でも、晴君と紺那ちゃん…」
そこで一度言葉を切った後、水平に動いた目線が少し上に向けられて ようやく藤華と紅音を交互に仰ぐ。
「――二人に何かあったら、私は相手を絶対に許さない」
晴と紺那、二人に限らず、朱璃はメンバーの中でも異常な程に仲間を大事に想っている面があった。それは、まだ幼かった頃の彼女が家族に見放された過去を持っているからであり(尤も、彼女の実の家族が現在も生きているのかは分かっていなかった。幼い頃にスラム街に置き去りにされた彼女は家族の記憶を持っていない)、今の仲間達は彼女が初めて見付けた絆であるから――という理由が根底に深く根付いている。勿論、彼らは仲間ではあるが家族ではない(一部、実際に血の繋がっている家族もいるが)。けれど、翼の印で繋いだ絆は家庭を知らない朱璃に憧れの家族像を描かせるには充分だった。
ハッキリと言い切った声は決して大きなものではなかったが、迷いなく真っ直ぐな瞳は揺らぐ事すらない。同意や非難を欲している訳ではなく、それは純粋に彼女の譲れない想い。口先だけの気持ちでない事は深く色付く瞳を見れば分かる。
「…朱璃ちゃん…」
黙って瞳を細めただけの藤華の隣で、何か言葉をかけようとしたのは紅音。けれど純粋過ぎる真っ直ぐな気持ちの前に見付かる言葉などなく、先程と同じく言葉にならない想いだけが詰まった息と共に行き場を無くすだけ。そんな中、張り詰めた空気をふいに破ったのは小さく床が軋む音だった。その音を引き金にパタパタと体重の軽い者が駆けて行く足音と、まだ幼い声が甲板に聞こえてくる。
「胡桃!」
「待って胡桃!」
よく似た二つの少年声はよく通る響きで妹の名を呼ぶと、バタバタと騒がしい足音を残して甲板から遠ざかっていく。姿こそ見えていないものの、それは彼らが開けっ放しになっていた扉の向こう側にいたという決定的な証拠となった。
いないものだと思って油断していた。
アイツらは一体いつからあそこで立ち聞きをしていたのか。
流石に驚いて扉の方を見つめたまま唖然としている朱璃と紅音の様に頭を抱えたくなりながら、藤華は苦いものを噛み潰すように顔を顰めた。今更こんな八つ当たりをしても仕方ないとは思いつつも、そこまで大人にはなりきれない。
「紅音、てめっ…チビ共リビングにいるって言ったじゃねぇか!」
「え、だ、だって…さっきまで…」
「つけられてんじゃねぇよ!」
「藤華!紅音は悪くないでしょ!」
思わず怒鳴り付けた藤華を更に朱璃が叱り付ける。お互い本気で怒っている訳ではないものの、気の小さい紅音はすっかり狼狽して蒼白になっていた。こんな顔をされると何だか本当にこっちが悪者の気分になってくる。はぁ、と嘆息を零して力なく片手を額に当てた藤華は仕方なくその場から足を踏み出した。
「だからチビ共どうしてるって聞いたのに…アイツら無駄に行動力あるから…」
「ご、ごめん…」
「紅音は謝る必要ないわ。この場合は誰も悪くない」
それはお前が言うべき台詞ではないのでは…などと思いながらも口にするのも面倒臭くて、そのままノロノロと二人の間を通り過ぎると後ろから軽やかな足音がついてくる。藤華に続いて甲板と室内を繋ぐ扉へ向かいながら、朱璃は未だどうしたものかと立ち止まったままの紅音の腕を軽く引いた。
「行こう。きっと会議に答えが出るから」