この世で唯一、厚い灰色の雲を突き抜けた建造物である鋼の塔の内部構造はシンプルなようで入り組んでおり、この塔で働いている者でさえどの通路が何処へ繋がっているのか熟知している者は少ない。各階に備え付けられたエレベータでさえも全てが同じ場所へ通じている訳ではなく、それは一般人立ち入り禁止区域となっている上層部では更に細かく枝分かれしていた。例えば同じ階に二台のエレベータが設置されていても、それは必ずしも両方とも同じ階に向かう事が出来る訳ではない。上にしか行かないエレベータ、下にしか行かないエレベータ、それから特定の階でしか止まらないエレベータ。更に廊下や研究室が全て白っぽい灰色で統一されており、似たような部屋が何処までも変化のない廊下にズラリと並んでいる為、よっぽどこの場に慣れていないと迷う事は避けられないのだ。
そんな廊下を迷いなく歩く一つの影と、それについて行く小柄な影。
細い通路を左に曲がって突き当たりのエレベータへ辿り着く前に、彼らは背後から――つまり角を右に曲がっていたら出くわしたであろう声に呼び止められた。正確に言えば、呼び止められたのは小柄な影の方だけだが。
「銀鈴様」
涼やかな声が白い廊下に響いて、波紋のように静かな余韻を残す。長身の青年を追い掛けるようにして歩を進めていた少年は、背後から呼ばれた自分の名前に反応して足を止めた。彼が銀蒼の髪を揺らして肩越しに振り返るのと、声の主が兄弟に追いついたのはほぼ同時。
「あれ、白凪。先に研究室に行ってたんじゃなかったの?兄上がそう言ってたから…」
よく見知った社長秘書を肩越しの視界に映してから、銀鈴は改めて体ごと彼女に向き直った。自分よりも身長の高い女性を見上げて瞬く黄金の瞳は年相応に幼い。その瞳と、それから彼の向こう側で足を止めて静かに振り返った同じ色の瞳を交互に見返して、白凪は一度小さく頷いた。
「えぇ、ですが問題が起きましたので一度階下に戻っていました」
「問題?」
聞き返したのは銀鈴ではなく、彼の兄の方。金と銀の、感情の見えない目線が少年の頭の上で静かに交わる。
「新しい研究員ですが。残念ながら使い物になりませんでした」
「…そうか」
「勝手ながら私の判断で、彼を『下層』へ連行致しました」
「構わん。判断はお前に任せている」
「はい。その件なのですが」
一度だけ緩く瞳を伏せてから、伏せ目がちの瞳はそのままに僅かに顔の向きを下げて。余計な口を挟む事なく、ただ黙ってじっとこちらを窺っている大きな金の瞳と目線を合わせる。
「彼の処置には銀鈴様のお力が必要となります。その為にお伺い致しました」
「…え?今、から?」
「はい。処置は早い方が助かります。…彼の他にも新しい囚人がいるようですし」
まさか自分を呼び戻す為に彼女が来たとは思わなかったのだろう、キッパリと告げられた返事に銀鈴は戸惑いがちに視線を彷徨わせた。うろうろと彷徨った目線は今一度、どこか許しを請う子供のような目で目の前の女性を仰ぐ。
「あ、後からじゃ…駄目かな?今から僕、兄上と上層に…」
「――銀鈴」
静かに割り込んだ声に、少年は白凪の目から見ても分かる程その身を身を固くした。小さく跳ねた肩を強張らせたまま、詰まらせた息をぎこちなく飲み込む。どこか怯えたような瞳がゆっくりと振り仰いだ先の兄は、既に弟の方を見ていなかった。今から乗る予定だったエレベータの方へ歩き出しながら、振り返る事なく声だけを背後へ投げる。
「お前の仕事を言ってみろ」
「…地下牢獄の管理」
「だったら何を優先させるか分かるな」
「……うん…」
靴底が床を擦る音が一歩ずつ遠ざかる。けれど、少年の足はもうその後ろを必死についていく事はなかった。軽く拳を握り締め、たった今飲み込んだばかりの息を吐き出すかのように浅く息を零す。一度緩く瞳を伏せた後に、傍に立ったままの白凪を仰いだ表情は既に14歳の少年のものではなく、コランダム地下牢獄管理者の顔に変わっていた。
「…白凪、仕事に戻る。資料は下に届いてるんだね?」
「はい。手配しておきました」
「分かった。…その、白凪は兄上と一緒に…」
「承知しております。私は社長と共に上層へ向かいますので。後程、通信で御連絡頂ければ」
「…うん」
振り切るように目線を逸らして、銀鈴は兄が歩いて行った方とは逆側――先程、白凪が歩いて来た方に向かって軽やかに床を蹴って駆け出した。彼が足を踏み出す度に、まだ小さな背中で人工翼のマークが跳ねるように揺れる。振り返る事ないその姿が廊下突き当りのエレベータに乗って下へ降りて行くのを見送って、白凪はようやくその場から足を踏み出した。若干早足で上司の後を追うと、そう苦労する事もなく単調に歩く背中に追いつく。
「…良ろしかったのですか」
「銀鈴を呼びに来たのはお前だろう」
「銀鈴様が望むのなら、仕事の時間を遅らせる事は可能でした」
その隙を貴方が与えなかっただけ、と含みを持たせるが、青年の表情が崩れる事はなかった。
「仕事の出来ない無能は必要ない。…銀鈴も、例外ではない」
「銀鈴様は有能でいらっしゃいます」
「だから此処に留まっているんだ」
ただ、それだけの事。
そう呟いたように聞こえたのは白凪の気のせいだったかもしれない。チラリと盗み見るように仰いだ端正な横顔は何の表情も宿しておらず、若干クセのついた銀髪が歩調に合わせて規則的に揺れるだけ。白凪の位置から見える冷えた瞳は 時折その銀髪に遮られながらも揺らぐ事すらなく、ただ前方だけを静かに見据えていた。
乱れない感情。
冷えた瞳。
表に出さない、奥底の想い。
彼が何を考えているかは恐らく誰にも分からない。
秘書である白凪も、弟である銀鈴も、彼の心の内を知っている訳ではない。
ただ分かる事は
彼が目的の為には手段を選ばない冷徹な面を持っているという事。
多少の事態で動じるような、薄い覚悟は持っていないという事。
その人格が構築されるだけの『何か』があるという事。
王都における絶対的権限を持った『コランダム』の頂点に立つ男。
名を、銀恢(ギンカイ)といった。