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act:02-03

ジワリと紙に浸透していく水のように、静かな存在感を纏いながらエレベータの方から歩いてきたのは一人の女だった。20代半ば、といったところか。色味を失ったかのような白い髪を後ろでキリリと纏め上げ、金属のように冷えた銀の瞳は長い睫毛の奥で若き研究員の暴動をピタリと正面から捉える。背筋を伸ばし颯爽と歩くその姿は凛と咲き誇る一輪の華のようで、瑠藍達から数歩離れたところで足を止めると足元からしなやかに伸びる影もそれに倣って停止した。
「…白凪(シラナギ)さん…」
一瞬で表情を強張らせた隣の青年が呼んだ名前はどこかで聞いた事があるもので、瑠藍は僅かに眉を顰めた。

直接的に面識はないが、知識として覚えている名前。コランダムの若き社長の傍に控えている有能な秘書、それが白凪という名だったような気がする。遠目で見た事は何度かあったけれど、こんなにも冷えた目をした女性だという事は知らなかった。

呼ばれた名前には特に反応を返さずに、コランダム社長秘書は一度周囲を見渡した目線を再度ゆっくりと瑠藍の方へ向けた。端正な顔立ちは表情が変わらないせいか、正面から見ると造形の美しい人形のようにも見える。
「…貴方ですか、今日配属された研究員というのは」
「そんな事はどうだって…」
「聞いているのです、答えなさい」
間髪入れずに遮った声はそこに感情を滲ませる事なく、けれど有無を言わさぬ迫力を纏う。苦々しげに顔を顰めて、瑠藍は青年に掴まれたままだった手首を振り解いた。
「…そうです。しかし現状を知った今、ここに留まるつもりは…」
「ご心配なく。留まって貰うつもりはありません」
留まるつもりはないと。最初にきっぱり告げようとしていた言葉を相手から先に申し出されて、瑠藍は言葉を失くして目を瞠った。予想していない答えにはどんなに賢くても一瞬反応が遅れる。相手の言葉が途切れた事など大した問題ではないのか、白凪は表情一つ変える事なく目線を水槽へと向けた。水中の白い影は自分の意思に関係なく、ただゆらゆらと漂うだけ。
「貴方はここでバード・プロジェクトに参加する為に呼ばれました。けれど、貴方はこの場にある事実を受け止める事が出来なかった」
「そんな…そんなの当たり前じゃ…」
「当たり前であるとか、そうでないとか。感情的な事は問題ではありません。大切な事は、貴方がここで仕事を出来るか否か」
そこでもう一度目線を落として、瑠藍へ目を向ける。困惑して言葉を挟む事が出来ない少年を前に、波立たない水面のように静かな瞳は同じような音の響きで更に言葉を続けた。
「何故なら貴方達研究員に求められているのは、それ以上でも以下でもないのですから。…貴方はどうやらこの場には不適合のようでしたが」
機械的に淡々と紡がれる声には寸分の乱れもなく、的確に無駄のない言葉を音にしていく。一呼吸の後にゆるりと瞳を伏せる仕種がやけに艶やかで、研究員の何人かは状況も忘れてすっかり見惚れてしまっているようだった。当然、瑠藍にはそんな余裕などなかったけれど。
「ですから、貴方がここに留まる理由はありません。仕事の出来ない無能は必要ありませんから。――クビです」


一瞬、彼女が言っている言葉の意味が分からなかった。
自分で過信をしていたつもりはないけれど
頭のどこかで無縁だと思っていた、その単語。

冷静に告げられた戦力外通告。
何故だろう。
ショックな筈なのに、こんなにも可笑しい。


「……はっ」
思わず薄い笑みが零れたのは殆ど無意識だった。僅かに目線を下げた先、視界に入る白い床を見つめて皮肉気に顔を歪める。口の端を吊り上げて、感情のままに咽を震わせると乾いた笑い声が漏れた。
「…あぁ、辞めてやるよ。こっちから願い下げだ。ここは仕事場なんかじゃない」
「先に言っておきますが」
艶のある小さな唇が動いて、銀の目線が投げられる。動作の一つ一つはゆっくりとしていて、けれどそれは綺麗な一連の流れに繋がっており無駄な動作が何一つとしてない。
「クビ、の意味を取り違えないように。機密事項を知った部外者はそれ相応の場所に行って貰います」
「――っ!?」
言葉が終わるか終わらないかのところで白凪の右手が持ち上がった。初めて動作らしい動作を見せた彼女に警戒する間もなく、黒い残像が視界の端を掠める。滑らかな曲線を描きながら数歩分の距離を一瞬で埋めたその影は、彼女の言動と同じように何の躊躇いも隙もなく瑠藍の右腕に絡みつく。急に動かなくなった右腕に驚いて目線を落とした先には、しなやかな黒い革製の鞭が動きを拘束するかのように巻きついていた。あまりにも一瞬の出来事に声も忘れて目を見開くばかりの瑠藍に、変わらない声音が冷静な言葉の続きを紡ぐ。
「それに、この計画への反抗は政府に対する反逆行為とも取れますので」
「なっ…どういう事だ!放せよ!」
「元研究員なら言葉の意味も捕えられた意味も分かるでしょう。来なさい、下に傭兵を呼んでいます」
「ふ、ざけるな…!」
「…こちらの台詞です。本当に往生際が悪い…」
白凪が初めて見せた感情は若干の呆れが混じったもので、彼女は浅く嘆息を零すとピンと張り詰めた己の鞭を力任せに引き戻した。細腕に反して強い力が、瑠藍の足の裏を床から引き剥がす。
「――っ」
研究員であるが故に知力には自信があるが、力にはハッキリ言って全く自信などない。けれど、女性相手に力負けしてしまうとは思わなかった。右肩から強く倒れ込んだ先、冷えた床を這うようにしながらも顔だけを上げると冷たく見下ろす銀の瞳と目が合う。

こちらの言い分など最初から聞く気がないのだ、この冷たい圧力は。

右腕に絡みつく鞭は一瞬たりとも緩まる事などなくて、ギリと奥歯を噛み締めるとふいに隣に立ち尽くしたままだった足が一歩分近付いた。白い床に張り付いたまま止まっていた黒い影が、震えながら時を刻み出す。
「ま、待って下さい…!瑠藍はまだ環境についていけてないだけで…」
弱々しくも割り込んだ声は瑠藍がよく知っている人物のもの。踏み出した足は微かに震えていて、それでも青年は後輩を助ける為に己が持つ最大限の勇気を振り絞った。それは、今迄ずっと暖かな感情を殻に閉じ込めて無鉄砲に上に逆らう事を押さえつけていた青年が初めて見せた精一杯の自己主張。けれど、それすらも無感情な冷たい声の前には無意味に終わる。
「今ついていけない者はいつまで経っても同じです。貴方も同じ目に遭いたくなければ余計な発言は控えるように」
「…っ」
言葉に詰まって俯いた瞳は床に倒れた瑠藍のそれと一瞬目線を交わした後に、ぎこちなく逸らされた。固く握られた拳は微かに震えていて、必死で踏み出した一歩分の距離さえも何故だかやけに遠くでの出来事のように少年の視界の端に映る。


逸らされたものを追うような事はしない。

分かってる。
僕は貴方を恨んじゃいない。


「立ちなさい。それともそのまま引き摺りましょうか」
巻きついた鞭が強く締まり、右腕から血の気を奪う。苦々しげに見上げた先の瞳はどんな反応を返しても平坦な色を宿していて、それが更にこちらの感情を昂らせた。よろめきながらもゆっくりと起き上がると、右腕から伸びる鞭を引き寄せるように空いた左手で強くそれを握り締める。尤も、強い力が加えられているその黒いラインは瑠藍の力では動かなかったが。
「…ふざけるな…こんなの、僕は認めない」
浅く吐息を零しながら相手を睨む瞳には、諦めの悪い強い光。それはこの場には酷く不釣合いで何の得にもならないものではあったけれど、この場に存在するどの種類の光よりも綺麗な光彩を放っていた。自由を拘束する鞭を掴んだまま、肩越しに水槽の中の少女を振り仰ぐ。ガラスに囲われた水中の世界で眠る少女は、これだけの騒ぎを前に目覚める事はなくただ静かに漂うばかり。
「…彼女は鳥じゃない。ましてや実験体でもないんだ。…そんな事も分からないのか!」
弾けるようにホールに響く声に返る言葉はなく、白凪すらももう言う事はないと思ったのか口を閉ざして鞭を手にしたまま踵を返す。彼女の動きが直で伝わる瑠藍の右腕が強く引かれて、少年は今度は倒れる事はなかったがつんのめるように前方へよろけて、そのまま引き摺られるようにその場から引き剥がされた。


何を言っても言葉が通らない。
共通の言語である筈なのに、今は何故か異国の言葉を話しているかのように何一つ通じない。

こんな場所だったのか。
僕が今迄、生活していた場所は。


繋がった黒い拘束線によって引き摺られるように連行されていく中、諦めきれない瞳は視線だけでも残すかのように何度も背後を振り返る。その目は静かに道を開ける研究員達ではなく目覚めない少女へ真っ直ぐ向けられていたが、彼女がその視線に応える様子はない。

円筒の水槽が視界から遠ざかり、それでも最後にもう一度、無理矢理首を捻って振り仰いだ時。
揺れる水面の向こう側で緩やかに瞼が押し上がり、その下から鮮やかな黄金の色彩が解放されたのが見えた――ような気がした。




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