開かれた小さな手の平は指先までピンと張り詰めて、大きな金の瞳は疲労の色を閉じ込めながらも相手から目線を逸らす事はなく。低い位置から見上げてくる強い眼差しすらも軽く受け流して、女は長い指で少女の細い輪郭をなぞった。不快そうに眉を顰める表情が逆に面白いのか小さく咽を鳴らせて、顎先まで滑らせた指で小さな顔を掬うように僅かに持ち上げる。
「貴女にそれを決める権利があるとでも思っているのかしら?」
「…っ」
答える代わりに顎に添えられた指を振り払う。その衝撃だけでよろけそうになったのは女ではなく、振り払った少女の方。フラリと一瞬地面から浮いた足の裏を何とかその場に踏み留めて、苦しげな吐息と共に言葉を吐き出す。
「…なくてもそうして貰う」
「随分と身勝手なお姫様だこと」
言葉の割に声はどこか楽しそうで、女は瞳を緩やかに細めて紫色の長い髪を掻き上げた。コツ、と響いたヒールの音はその場から反転して少女達から一歩分遠ざかる。
「いいわ、今回は殺さないであげる。来なさい、鋼の鳥」
「…」
「返事は?」
「……今、行く」
低く、苦虫を噛み潰すように漏れた声は呻きに近かった。ようやく伏せ目がちに目線を下げた少女は、女に続いてその場から足を踏み出そうとして――その足を止めた。いや、正確には背後から服の裾を掴まれて動きを止められた。驚いて振り返った先には、歪みながらも閉じる事のない瞳。弱々しくも強く伸ばされた腕。痺れが回って引き攣る指を無理に動かしているせいか、小刻みな振動が微かに伝わってきた。
「…行きた…く、ないの、に、…行く…必要はない、よ…」
薬に耐えているせいだろうか、鮮やかな紫色の瞳に映るこちらの姿が揺らいでいる。断続的に漏れる吐息の合間にたどたどしく紡がれる言葉の羅列に息が詰まった。
諦めない、揺るぎないココロ。
捻じ伏せられても叩き付けられても、薄れない光。
彼女は、いや、彼らは自分の為にここでいなくなっていい存在ではない。
「…ありがとう。出会えて良かった」
「待っ…」
「――さよなら」
笑う事を知らない瞳はそれでもぎこちなく細められて、彼女なりの笑顔を作った。痺れた指をそっと解くと、その温かさを断ち切るように踵を返す。それでも尚、服の裾を掠めたのは諦めの悪い紺那の指か、けれどその指はもう決意した足を止める事など出来なかった。背後に紺那を残したまま、敢えて振り返る事なく瞳を伏せる。一歩踏み出す度にグラリと地面が揺れるのは疲労のせい。先程までは二人が気遣って支えてくれた、けれど。
ここからはまた、独り。
独りで歩かないと。
「随分辛そうね。考えなしに力を使うからよ」
「…黙って」
「…さっきから口の利き方を知らない小娘ねぇ…。命令さえなければ体罰与えてるトコだわ」
睨むように見下ろす目線が頭の上から突き刺さるのを感じながら、好きにすればいい、などと思った。あまりにも投げやりな気持ちだったせいか、言葉の中の妙な単語に気付くのが遅れる。
「……命令?」
ようやくその単語に不審感を覚えて探るように女を見上げるけれど、彼女は怪訝そうな瞳には気付かなかった。大して興味もない事なのか、目線すら合わせる事なくフンと鼻を鳴らす。
「アンタを無傷で連れ帰らないと社長からクビくらっちゃうわ。ここ給料いいからまだ辞めたくないのよね」
それは女にとっては知られてマズイという訳でもない、単なる仕事事情。けれど嘆息混じりの返答に、鮮やかな金の瞳が大きく見開かれた。
大事にされている――訳ではない。
それを一瞬で理解する。
『あの人』は、置いておきたいだけなのだ。
決して傷付ける事はなく
けれど、意思も権利も聞き入れる事はなく
それは
硝子細工の鳥の置き物のように。
ゾクリと背筋を冷たいものが駆け抜ける。戻りたくないと地面に張り付いた足はほとんど本能的なもので、けれど彼女に残された選択肢は一つだけ。この足は戻る為に進むしかないのだ。詰まった息をゆっくりと吐き出して眩暈で揺れる視界に耐えながら、影を無理矢理引き剥がすように重い一歩を踏み出したその時。淀みかけていた空気が裂ける音が響いて、風が生まれた。
「――!?」
突如回転しながら割り込んできた木製の棍は少女の脇を通り過ぎて、既に背中を向けていた女へと向かう。けれど、完全な奇襲に大きく瞳を見開いたのは少女だけで女は振り返る事すらせずに静かに片腕を上げた。ヒュッ、と空気を切り裂く鋭い音が響いて―― 瞬間、浮き上がった幾筋もの鋼糸は標的をその手中に捕捉する。無傷で動きを止める事など知らない切れ味はそのまま棍に巻きついて、一瞬で武器をただの木材の残骸へと変貌させた。無残にも輪切り状態になって地面へ落ちた木片には、もう戦う術は残されていない。
「…大人しくしていればいいものを」
静かに片腕を下ろしながら振り返ると、長い紫の髪がフワリと舞う。瞳を細めて見据えた先にはついに地面に伏せた赤髪の少女。身体の自由を全て奪われて、崩れ落ちる前に放ったのが渾身の一撃だったのだろうか。それすらも圧倒的な力の前には届かなかったけれど。
「どこにそんな力が残っていたのかしら。驚きだわ」
爪先で先程まで棍だったものの欠片を軽く踏み付けた後、それを倒れた少女に向かって蹴り付ける。先程まで武器だったとはいえ、所詮は軽い木材の塊。衝撃を受けて飛んだ木片は、倒れた主の片手を弾いて跳ね返った。
「!何してるの!やめて!」
慌ててその間に割り込む少女を一瞥してから、流すように視線を外す。病的な程白くて細い手首をいささか乱暴に掴むと、女は低い位置の少女とは目線を合わせる事なく歩き出した。苛立ちを含むヒールの音が乾いた路地裏に響き渡る。
「何…放して!自分で歩ける…」
女の歩調について行けずによろけるが、彼女は歩調を緩めてはくれなかった。抗議するかのようにもがくけれど、強い力で手首を掴まれたまま返る言葉は何もない。引き摺るように少女を引っ張って数歩進んだ先、控えていたらしい数人の傭兵達に女は目さえ向けずに指示を飛ばす。
「連れて行きなさい」
「!?」
大きく瞳を見開いたのは、主語のなかった彼女の言葉の意味を理解したからだ。理解したのは彼女だけではなかったらしい、傭兵達は短く了承の返事を返すと二人の脇を擦り抜けて、倒れた少年少女の元へ駆け寄って行った。
「!ダメ!」
短く叫んで戻ろうと身体を捻るが、手首を掴まれているせいでその場から動く事など出来ない。怒りの色を滲ませて女を見上げると、冷たく見下ろす瞳とようやく目が合った。
「話が違う!あの人達には手を出さないって…」
「殺さない、と言っただけよ。約束は守ってるわ」
「そんなの卑怯だよ!守ってる事にならない!」
淡々と紡がれる鋭さを纏った声音にも臆する事なく真っ向から言い返すと、形の良い細い眉が顰められて低い舌打ちが聞こえた。それにも怯まずに一歩彼女に詰め寄ると、間髪入れずに目の前を残像が横切る。それに瞳を見開く間もなく――
「――っ」
高らかに響いた乾いた音と共に、空色の頭が揺れる。少女の頬を張った左手はそのままに、女は静かに言い放った。
「身分を弁えなさい。実験体のくせに」
「……っ」
ジワリと口内に滲んだ鉄の味。それを舌先に焼き付けたまま、それでも手首を掴む手をしぶとく振り払おうとしたが、細い指は白い肌に食い込んだまま頑として動かない。そのまま強く腕を引かれてよろけた足は何度か縺れて倒れたが、すぐに引っ張り起こされて歩く事を強要された。引き摺られるように連行される中、肩越しに振り返った視界ではもうあの少年少女の姿は確認出来ず、届く筈もないと分かっていながら必死で伸ばした左手は風すら掴む事が出来ずに空を切るだけに終わった。