細かい数字と文字の羅列は青白い光を放ちながら宙に浮かび上がり、翡翠色の瞳が素早くそれを斜め読みしてはさほど考え込む事なく手元の端末を操作していく。何重にもロックされたセキュリティを一つずつ確実に解いていく彼の真後ろでふいに派手な爆発が起こり、すっかり薄汚れてしまった白衣が爆風に煽られ背中から浮かび上がるように翻った。それでもその背が振り返る事はなく、その位置ごと護るように立ち塞がった赤いブーツが破壊された床の破片を踵で弾き飛ばす。一定の距離を開けつつも背中合わせのように瑠藍に背を向けたまま、紺那は手の中の小型銃に新たな弾を込めながら前方を見据えて大きく口を開いた。激しい戦闘音に負けないようにか、声は自然と大きくなる。
「――瑠藍、早く!まだぁ!?」
「静かにしてくれ!こっちだって急いでる!!」
振り返らずに叫び返した声は新たな機械音に上書きされた。紺那と対峙する巨大な影は高い位置に取り付けられたセンサーで彼女の気配を察知したまま、警告音を響かせながら重い一歩を踏み締める。既に破壊されて床に倒れた仲間の残骸に途中で一瞬躓いた後、機械の兵士はその場で力を溜めるかのように膝部分を曲げて立ち止まった。機械の関節が軋む音と同時に膝部分装甲の隙間から排気が吹き出し、上から強い力をかけられた石造りの床が円形に陥没する。陥没の真ん中で強く床を蹴る動きは人間のそれに近く、障害物を飛び越えるかのように仲間の残骸を跳躍で越えてきた機械兵に紫色の瞳がぎょっと見開かれた。この巨体が跳ぶのは紺那の中では想定外だったのだ。
「とっ、跳ぶとか聞いてない!虫か!!」
律義にツッコミを入れる辺りまだ余裕がありそうなものだが、これは単に反射的に口をついて出てしまっただけのようだ。足に仕込まれていたらしいバネを使って跳び込んできた巨体は丁度紺那の立ち位置を着地点に定めており、自分と瑠藍との間の距離を一瞬チラリと横目で測った紺那はその場から一歩だけ後方に飛び退いて上からの直撃を何とかかわす。とはいえ、避けたのはほんの一歩分。踏み潰される事は避けたものの着地の衝撃による突風を防ぐ事は出来ずに、苦し紛れに両手で頭をガードしながら体勢を低くするも強風に煽られた足が僅かにフラついて半壊した床を擦った。勿論、僅かに離れているとはいえ戦闘地帯の傍にいる瑠藍にも被害は及んだが、それでも距離のせいで紺那よりかは軽減されたらしい。背中を打つかのような強い風に一瞬息が詰まるも瑠藍の集中力が途切れる事はなく、彼はチラリとも振り返る事なく端末から浮かび上がる文字とそれを解いていく指先に全神経を集中させていたのだから。
『パスワードを解く間、壁になってくれ』
手探りで進んできた通路の先、厳重なロックが掛けられた強固な扉の前にはお約束のように厄介な機械兵がうろついており、その様を遠目に見やった瑠藍は暫く黙した後に結局苦々しくこう告げた。紺那の言う事にはあの機械兵は動きが遅く、単体ならばどうにか出来ない相手ではないと言う。しかし辛うじて機械兵の足元を擦り抜けて扉の前に辿り着いたとしても、扉が開かない限りはただの袋小路である。どのようなロックなのかは正直見てみないと分からないが、扉の前に行ってから「開きません」では確実に二人共命を落とすだろう。かといって、引き返して別の道を探すという選択肢は紺那の中にはないようであったし、もし瑠藍でも開く事の出来る扉ならば引き返す意味がない。
だとすれば、ここで懸けるしかなかった。
自身の能力、二人分の命。
先にあるものが地上に繋がる道だと信じて。
同じような年頃の(しかも、聞けば一つ年下だと言う)女性にこんな事を言うのは正直抵抗があったのだが、役割分担的にこうなるのは仕方のない話である。紺那もそれを分かっていたのだろう、「あたし、か弱いのに〜」などとわざとらしく呻きながらも彼女は瑠藍を護る為に彼に背を向けたのだった。
「解けるの?」とは聞かれなかった。
「失敗したら、」とも言われなかった。
こちらの提案に対し、一言も反論はされなかった。
急かされながらも完全に信用されているのだから、こちらも信用して背を預ける事にした。
振り返ればその分だけ遅くなる。
可能が不可能へと変わってしまう。
爆音が響いても爆風が煽っても、――たとえ紺那の悲鳴が聞こえても。
一瞬でも目を離せば読み落としてしまいそうな暗号を前に、自分が出来る最善を尽くすだけ。
「銃弾なくなっちゃうよぉ!弾!どっかに弾落ちてないの!?」
仮にも女の子がタマタマ連呼するんじゃない、などと普段なら思ってしまうような事を思う余裕すらなく、煤汚れた人差し指が軽やかに最後のキーを叩いたと同時に認証の電子音が細くも高く場に響く。続けて目の前で起きた、複雑な図形が決められた動きで鮮やかに開いていく様に一瞬目を瞠り、そこでようやく瑠藍は後方を振り返った。
「紺那!開いた――」
振り向き様、既に眼前に迫っていた赤が紺那のグローブの色だと気付くのには随分とタイムラグがあった気がする。返事すらなく乱暴に白衣の襟首を引っ掴まれたかと思ったら、足の裏が床から離れて瑠藍はぎょっと目を見開いた。大きく開いた翡翠の瞳に掠めるように映ったのは打ち込まれた鉄の拳が床を砕く様で、しかし次の瞬間には前方に強く投げ出され何が何だか分からない内に硬い床に叩き付けられる羽目になる。あれだけ酷かった轟音は、足元の方で開いた時と同じように規則的な動きで扉が閉まった音と同時にパタリと消えた。何重にも重ねられた扉という事もあるのだろうが、驚くほど完全な防音性だ。
「……ぐ…紺那、何を…」
倒れ込んだ時に強く打った右肩が痛む。しかし起き上がれないくらいの酷いダメージではなく、薄灰色の床を掻くようにしながらノロノロと上体を持ち上げると、瑠藍よりも若干扉側で同じように倒れ込んでいた(瑠藍をより遠くへ投げ飛ばした勢いのまま自分も飛び込んで伏せたのだろう)紺那もまたゆっくりと身を起こしていた。ただし、やはりというべきか瑠藍よりも動きはしっかりしている。ぺたりとアヒル座りで身を起こした後にパタパタと汚れを払い落としながら、紺那は気が抜けたのか安堵なのかよく分からない溜息を一つ零した。高い位置で結い上げている真紅の髪が力なく揺れる。
「あー…ごっめぇん…。見た?アイツ床壊してでっかい破片飛ばしてきたんだよ。あんなんくらったら痣だらけじゃんとか思っちゃって…開いたっぽい音聞こえたからとりあえずさっさと滑り込んじゃおって…。扉閉まってくれて助かったよ〜…でも何で開いた直後に閉まったんだろ。瑠藍何か設定したの?」
「…僕じゃない、恐らく危険自動察知だ。ロック解除によってプログラム通り開いたが、物理的な危険を判断してすぐに閉まったんだ。滑り込まなければ振り出しに戻ってた」
「マジ?良かったぁ〜〜あたしナイスじゃん。あ、瑠藍どっか擦り剥いた?」
「いや…問題ない…。まさか浮くとは思わなかったが…」
「そう?つか、寧ろ瑠藍軽くない?もっとご飯食べなよ〜」
「……」
どちらかといえば平均よりも細身体型であるとはいえ、瑠藍は決して病的に痩せている訳ではないし身長も特別低い訳ではない。その瑠藍を勢いがついていたとはいえ片手で引っ掴み前方へ投げ飛ばした紺那の力強さに内心ゾッとしながら、瑠藍は眼鏡の位置を直すふりと共にぎこちなく目線で床をなぞった。下に向けたその視界にふいに影が差し、それが既に立ち上がった紺那のものだと理解する。影の位置がやけに自分に近い事に一つ目を瞬かせ、それからぼんやりと顔を上げると目の前に片手を差し出されていて彼は面食らって一瞬動きを止めた。しかし(紺那は別段気にしないだろうが)その手を取る事に男としての面倒臭いプライドが邪魔をして、僅かな躊躇の後、結局片手でその手をやんわりと断ると自分でノロノロと立ち上がる。無視されたり振り払われたりした訳ではないので紺那も特に気分を害さなかったらしく、彼女はすんなりと手を引っ込めると目線を扉の方へ向けて小さく息を吐き出した。
「枚数重ねてるにしても薄いのに頑丈だね、このドア。機械兵もここまでは来れないのかな。突き破ったりとか」
「恐らく扉までは干渉しないようにプログラムされているんだ。間接攻撃が届く事はあっても直接扉を攻撃する事はないように」
「…そういえば、跳ねて潰されかけはしたけど扉に向かって突進はしなかったもんねアイツら。避けようがないから突進されてたら二人揃ってぺったんこで終了だったかも」
「怖い事をサラッと言うな君は…。…ギリギリの距離までしか近付けないのであれば、間接攻撃はこの扉で充分防げる。……多分」
薄汚れた手で扉の表面を緩く撫でるが、一度開いた後に再び閉ざされた扉はもう動く事はなかった。内側にも外側と同じような端末が取り付けられていたので、もう一度ロックを解除、或いは正規の方法――カードキーを差し入れればまた開く事も出来るだろう。ただし、その必要は今はもうない。
「結局さぁ、他のロックとは全然違ったの?瑠藍にしてはやたら時間かかってたけど」
両手を頭の後ろで組んで何気なく投げられた言葉は拍子抜けする程に気楽なもので、思わず瑠藍は唖然と動きを止めた。呆れたように紺那に目を向けると何故そんな表情をするのか分からないとでも言いたげな瞳がきょとんと瞬く。
「そんな事も知らなかったのか君は?」
「はぁ〜?だってそれはあたしの仕事じゃないじゃん。頭使うのは瑠藍の仕事、そういう分担だったでしょ」
「それはそうだが…君は、つまりよく分からない確率に命懸けてたって事だろう?よくそんな事が…」
「それはお互い様じゃん。瑠藍も命懸けてパス解いたんでしょ?」
当たり前のように言い切られて一瞬言葉を失う。目を丸くした瑠藍の様に今度は紺那が呆れたような顔になり、彼女はそのままの表情で一歩瑠藍に詰め寄った。両手を腰に当て、上体を前方に傾けて前屈みになると下から瑠藍の顔を覗き込む。
「あのさぁ、言っとくけどこの脱獄行為自体がもう命懸けなんだからね」
「……っ」
「もう引き返せないよ。戻っても瑠藍はともかくあたしは空賊だから処刑確定だし」
まぁ、戻るつもりないけど、と小さく続けて上体を起こした紺那は腰から下ろした片手で軽く扉の表面を叩く。軽い振動は叩いた手に跳ね返り、緩く握った拳が小さく揺れた。
「前にしか道はないんだよ。あたし達が今進んでるのは、止まったトコから崩れる脆い道」
「…そう…だな…」
「でしょ?分かったら行こ。こんな厳重ロックの先だもん、絶対何か重要ポイントあるって」
軽やかに身を翻し躊躇う事なく足を踏み出すと、足元の影も当然ながら同じようについて行く。アタリかハズレかは分かんないけどね〜、などと続ける紺那の背に続いて瑠藍もまた扉の傍から身を離した。先へと足を踏み出し掛けたその時、既に数歩先を歩いていた紺那が肩越しに振り返る。レンズを隔てた翡翠の瞳と目線を合わせた紫色の瞳が緩やかに細まり、彼女は二カッと歯を見せ明るく笑った。
「そういやパス解除おっつかれ。頑張ってくれてアリガトね」
「……君こそ。信じてくれてありがとう」