目には見えずとも、張り巡らせた警戒に引っ掛かる気配ならば察知する事が出来る。千草と別れてから一度も止めなかった足は、前方で見付けた四つの気配を察知してようやくその動きを止めた。急ブレーキをかけた靴底は摩擦で床を擦り、そこから巻き上がった土埃が足元を覆う。足を止めても一気に疲労が押し寄せる事はなく、息切れの代わりに深く息をひとつ吐き出した黄理は、闇に覆われた前方を注意深く見据えたまま腰元の短剣の柄を握ろうとして――結局やめた。
前方の気配が何であるのか――誰であるのか、彼の中で既に予想はついていた。しかし予想出来たところで、未だ肉眼で確認出来ない為に本当にそうなのかは分からない。見たままのものが真実とは限らずとも、判断材料は増えるに越した事はないだろう。
『向こう』も黄理に気付いたらしく、その場で止まったまま動く気配がない。無意識に呑み込んだ息は期待の証か、短剣を握らなかった手の平をグッと握り締めると黄理はその場から慎重に一歩踏み出した。どちらにせよ、動かなければ状況は進まない。立ち止まっている時間などないのだ。
一歩一歩近付く度に自分の予想も的中に近付いていくような気がして、鼓動の音が早くなる。向こう側から全く敵意を感じない事が、更に自信へと繋がった。その反面で、もし自分の予想が外れて前方の気配が敵だった場合は逃げなくては、などと思うだけの冷静さは残しておく。単純に数で負けている上に、気配一つ一つから感じる力が非常に大きい。敵わないのならば元来た道を一旦引き返して、別の道を探すしかないだろう。通路の幅は二メートル程か、決して広くはない為にここで複数を纏めて相手にするには分が悪いと思った。
そうこう思う間にも縮まった距離は、もう完全に自分の間合いにも相手の間合いにも入っていた。向こうの姿は未だ確認出来ないが、あとほんの数歩先へ進めばそれも自ずと分かるだろう。小さく息を呑み込んで足を止めた黄理の耳に聞こえてきたのは、確かに聞き覚えのある声。
「…黄理君?」
「黄理!黄理だろ!?」
知っている声が自分の名を呼んだ、その事だけでジワリと目の奥が熱くなるも千草との約束を思い出して必死でそれを塞ぎ止める。声に引き寄せられるようにフラリと進み出た黄理の足が何歩か先へ進んだのと、向こうがこちらに向かってきてくれたのはほぼ同時だった。最初に闇の中に浮かび上がった人影は二つ。
「桜夜サン…黒斗サン〜〜…」
「やっぱ黄理だ!何だよお前〜、元気そうじゃん!」
「黄理君…無事で良かった」
明るく笑う黒斗がこちらに駆け寄ってくる後方で桜夜がホッと胸を撫で下ろす。距離が近付いた事で闇が薄まり、更にその後方の二つの人影も確認出来た。笑ってヒラヒラと片手を振っているのは茶葵、その隣は――光る銃口。
「――!」
細い通路に銃声が一発響き、弾がめり込んだ床から細い煙が立ち上る。反射的に後方へ飛び退いた体勢はそのままに、黄理は大きく目を見開いたまま弾道の出発点をぎこちなく見やった。銃痕は先程の立ち位置から僅かに逸れていた為、恐らく黄理が反応出来ずとも彼には当たらなかっただろうが、そのような事は問題ではなくただただ自分が受けた行為自体が信じられなかった。自分達の間を縫って撃ち込まれた銃弾には黒斗も桜夜も驚きを隠せず、思わず動きを止めていた彼らは一拍遅れて後方を振り返る。
「ちょ、副長!?何してんスか!?」
「黄理君ですよ、副長!」
非難めいた声にもさほど表情を変えず、青威は手にした銃の弾の残量を確認して僅かに顔を顰めるとその銃を脇の方へ放り投げた。弾の残量がなくなったのであろうそれは彼の愛用銃ではなくずっと下のフロアから持ってきた銃で、確か麻痺弾が込められていると言っていた。乾いた音で床にぶつかった銃の音にビクリと身を竦ませた黄理へ目を向けると、銃弾を撃ち込んだ張本人は軽く片手を挙げケロリとした表情で謝罪の言葉を口にする。
「ワリィ、黄理!ちょっと試したわ!」
「試し……え?」
「偽者トラップかと思って」
ワリィワリィ、と明るく笑い飛ばす脇では茶葵が苦笑を零していた。思えば彼だけは青威の行動を非難しなかった辺り、意図に気付いていたのだろう。未だぽかんと口を半開きにして固まっている黄理を気遣うように桜夜が傍へと駆け寄り、逆に黒斗は青威の方へ何歩か足を戻す。その目は鋭く細まり、非難の色に満ちていた。
「何スかソレ!危ねーじゃんか、当たったらどうしてたんスか!」
「当たらないようにしたさ。万が一当たっても麻痺弾だったし」
「黄理の気配だったじゃないスか!副長も分かってたっしょ!?」
「感覚麻痺系トラップかもと思って。お前らの場合と違って、トラップエリアの通路(こんなトコ)で出くわしたらそりゃあ最初に疑うよ」
「〜〜っだからって!」
青威相手に珍しく食い下がってくるのは、黒斗にとって黄理が鴉で唯一の後輩で弟分のような存在だからだ。黄理を無駄に連れ回すのはいつも黒斗であるし、黄理に余計な事を教え込むのも大半が黒斗なのだが、そんなところも含めて彼は彼なりに黄理の事を可愛がっていた。言葉に詰まりながらも悔しそうに手の平を握り締める黒斗に、ようやくおずおずと声をかけたのは庇って貰った黄理本人。
「あ、のっ!黒斗サン、俺は大丈夫、です。えっと、あの、ビックリしたけど…ここだと仕方ないっていうか…副長がやった事正しいと思いま、す」
「何だよお前、撃たれかけたんだぞ!?」
「うぁ、ごめんなさい!でも撃たれてませ、ん…」
尻すぼみの弱々しい声に黒斗はやるせなさそうに舌打ちし、その脇を苦笑混じりの青威がスイと通り抜ける。擦れ違い様に黒斗の腕をトンと軽く叩いて。
「優しい先輩だな。隊員同士が仲良くて俺ぁ嬉しいよ」
「副長!何なんスかそれ!からかってるっしょ!」
「お前、何だかんだで黄理の事可愛がってるよなぁ」
「茶葵サンまで!あ、ちょ、桜夜も何笑ってんだよ!」
「ご、ごめんね黒斗君…」
「黒斗サン!あ、ありがとうございます!」
「うっせー!黄理は黙ってろ!お前の事なんかもう知らん!!」
完全に照れ隠しで後ろを向いてしまった黒斗の耳は僅かに赤かったが、庇われた黄理だけがそれに気付いていないようだった。(言葉上は)黒斗に突き放されて「そんなぁ」と項垂れる黄理の前まで歩いてきた青威は、窺うようにひょいと部下の顔を覗き込む。
「でもホントごめんな。逸れるように狙ってたし、お前なら反応追い付くと思ったんだ。実際、反応お見事だったよ」
「あ、はい!あの、大丈夫、です。俺、あの、分かってま、す」
「そか。ありがとな」
にか、と笑った快活な笑顔は投獄前と変わりなく、それに安堵して黄理はへなりと眉を下げて笑い返した。しかしその表情も長くは続かない。
「黄理君、千草は?一緒に行動してるって聞いてたけど」
不思議そうに辺りを見回した桜夜の何気ない一言に黄理はギクリと身を固めた。一体その情報をどこで得たのか、まさかこの質問がくるとは全く予想していなかった為に口の中が一気に乾いていく。動揺して不自然に揺れる視界にこちらの返事を待っている四人がチラチラと映り、それだけで何故だか強い圧力を感じてしまい益々血の気が引いていく感覚がした。偶然の再会にあんなにも安堵したというのに、途端にこの場から消えてしまいたい衝動に駆られている。
「お、俺っ…あの、俺…」
「?黄理?どした、千草と何かあったんか」
「俺のっ…俺のせいなんです!俺のせいで、千草サンは…」
思いきったかのように吐き出された言葉を悪い方に受け取ったのか、四人の顔色が一瞬にして変わる。思わず黄理に詰め寄ろうと黒斗が足を向けかけたが、それは近くにいた茶葵から片手で制された。勢い任せの黒斗の問い詰め方では黄理を怯えさせるだけで、益々情報が混乱すると思ったのだろう。桜夜は大きく目を見開いて言葉を失ったまま、その隣で青威は一度小さくかぶりを振ると(彼なりの落ち着く為の行動だろう)再び黄理の表情を窺うように覗き込む。
「黄理、落ち着いて聞けよ?まどろっこしい事はナシだ、俺もストレートに聞く。…千草は今、生きてるのか?」
「え…?」
自分で自分を追い詰めて一点を見つめていた瞳がたどたどしく青威の目線と交わり、それから黄理はぽかんと口を半開きにしたまま一つ瞬きを落とした。ようやくそこで自分が周りに与えてしまった誤解に気付き、今度は別の意味で顔が熱くなる。
「うぁ、違っ、あの、千草サンとは牢獄エリアで別れました!俺が知ってる限り、怪我もしてないです!ただ、あの、通路が分断されちゃって、あのその…」
「何だよ!別行動取らざるを得なくなっただけかよ!」
「はー…千草に限って無茶はしないとは思ったけど流石にちょっとビックリしたな…」
「じゃあ千草とは牢獄エリアで別れて、そこから黄理君は一人だったの?」
「あ、は、はい!あの…ご、ごめんなさい…誤解させちゃって…」
「ホントだよ!紛らわしいんだよお前!」
千草がこの場にいたら「勝手に殺さないで下さーい」と笑った事だろう。安堵感から脱力して「この馬鹿」と呻いた黒斗にオロオロと謝ると、山吹色のクセッ毛が力なくひょこひょこと揺れた。やれやれと安堵したような苦笑を零した青威は、黄理の背中を軽くポンと叩き、続けて他のメンバーにも目配せして先を促す。
「何にせよ鴉が欠けてなくて良かった。黄理はもっと情報整理して口にするように」
「ス、スススミマセ…!」
「とりあえず他の近況報告は進みながらな。黄理、お前がいてくれると戦力的にもかなり助かる。合流出来て良かった」
「でも俺…俺だけ…その、何もしてなく、て…ごめんなさ…」
黄理以外の四人は皆、痣や擦り傷、切り傷だらけだというのに(桜夜に至っては右手に包帯まで巻いていた)自分だけがほぼ無傷な事が何故だか無性に申し訳なく思えてしまう。歩き始めた周りに合わせて足を踏み出しながらも、俯きがちの目線は床の上をなぞるばかり。その為、周りで苦笑混じりに交わされた目線に黄理が気付く事はなく、急に小さな四つの衝撃を続けざまに受けて彼は驚いて顔を上げた。
「ここまで無傷とか上出来だ。体力余ってんな?いつも通り一番前で道拓いて貰うぜ、黄理」
「大丈夫、皆で地上(うえ)に帰ろうな。頼りにしてるよ、黄理」
「何もしてねぇならここまで来れてねぇだろ!泣き虫黄理にしては頑張ったんじゃね?」
「ごめんね、黄理君。私の右手もうあんまり使えないの。その分、負担かけちゃうけど…頼めるかな?」
青威から背中、茶葵から肩を軽く叩かれ、黒斗からは乱暴に頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜられる。更に桜夜から右手を両手で包み込むようにぎゅうと握られて、その体温に、それぞれから触れられた感触にまたも一瞬涙腺が緩んだが、必死でそれを抑え込んだ。耐えるように奥歯を強く噛み締めた黄理は、顔を上げた目線はそのままに今度は力強く頷く。その目にはもう、涙の気配は見えなかった。