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少しずつ狂っていった歯車が
少しずつ破綻し始め、
それはやがて大きな歪みを生む。


明けない夜はない。

灰雲の境界線に覆われた世界でも
夜の後には朝がやってくる。


目の前の闇を振り切る事に必死な鳥が
たとえそれに気付いていなくとも



夜明けの時は、確実に迫っていた。










act 08 : 東雲の合図



もうすっかり見慣れてしまった鉛色の壁はどこを歩いても同じようなものが続いており、一度通った場所なのかそれとも別の通路なのかすらよく分からない。上のフロアに上がる時に通ったような気もすれば、似ているだけで別の道のような気もする。そもそもこの『下層部』に分類される場所は全部で地下何階構成なのだろうかなどとぼんやり思うが、それを知ったところで道をショートカット出来る訳でもないのだし(関係者ならば出来るのかもしれないが、脱獄囚の自分達には無縁に思えた)意味がなさそうなのでその辺の事は考えるのをやめた。そろそろ牢獄が見えてきてもおかしくない辺りまで降りてきたが、それが見えてくるのはあと一フロアほど下の階からだっただろうか。最初の方――それこそ脱獄したばかりの頃は自分達の入っていた牢獄をスタート地点として何階まで上がっただとか、そんな事も数えていたのだが、途方の無さに心が折れそうだったのでそれも考えるのはやめた。尤も、心が折れそうだと思ったのは自分自身ではなく共に行動している少年の方なのだが。


「黄理、疲れてねぇ?まだ走れる?キツイなら休憩入れるけど」
「!うぁ、はい!俺っ、あの、まだまだ元気、です!」
「あいあい、了解〜」
急に話し掛けられて肩を跳ねさせつつもたどたどしく返ってきた言葉に、緩く笑いながら片手をヒラヒラと振る。千草自身も単に聞いてみただけで、本当は黄理が殆ど疲れていない事など分かっていた。そもそも小走りで駆ける速度も千草に合わせているようだ、少なくとも彼の足の速さは(流石に光石の力には敵わないが)生身の桜夜と同等かそれ以上だった気がする。勿論速さがあるからといってそれに比例して持久力もあるという訳ではないが、体力はまだまだ温存されている筈だ。彼の場合、もし疲れているとしたら体力的なものでなく精神的なものだろう。

仲間の武器を得たからといってそれを届ける為に道を引き返すのは、実は間違った選択をしているという自覚はあった。擦れ違いの可能性、体力消費の問題。それらを考えた時に千草もまた、青威達と同じような考えであった為、仮に単独で行動していたのならば引き返さずに先へと進んだだろう。彼の仲間達は武器がなかろうがそこそこの能力値を持っていた為、別々に投獄された仲間達の事は実は特に心配はしていない。つまり武器を届けるというのは口実に過ぎず、戻っているのは共に行動している不安定な後輩の精神安定の為であった。『一旦戻る』という提案と要望を出したのは黄理で、一度は反対したものの強く意見を通せなかった千草がそれに付き合ってやっている、それが彼らの現状である。

(絶対怒られるだろうなー…。でもなー…コイツめっちゃ凹んでんだもん…)

諭しきれなかった駄目な先輩として甘んじて俺が怒られましょう…と思いながら、チラリと横目で斜め後ろを走る黄理を見やる。表面上は前向きに立ち直ったかのように見える黄理だが、実はその裏で普段以上にひどく不安定で脆くなっている事に千草は気付いていた。幸い戦闘面に支障は出ていないようだが、初対面の紺那に取り上げられた武器について突然支離滅裂な事を言い出したのは恐らくその影響だろう。ちなみに真っ先に紺那に斬り掛かった事に関しては割といつも通りなので、この際(たとえ一般的に見て充分問題であっても)問題ないとする。

雇い主に切り捨てられた事、先輩達と引き剥がされた事、武器を奪われ、更にそれをぞんざいに扱われた事。そのどれもがショックなのは、経験の少なさと彼自身の性格が合わさった結果だった。鴉のメンバーの中でも最年少、更に組織に入った時期も遅い黄理は、裏切りや負の感情にまだ慣れていない。加えて本人自身の純粋で直情的な性格のせいで、今回の件にまだ気持ちが追い付いていないのだろう。頭では理解して割り切っていても、感情が追い付かない。
それに比べて千草はといえば、薄情なのか打たれ強いのか黄理ほど現状にショックを受けていなかった。裏の仕事に染まりきっていたからという訳ではなく(そもそも千草も鴉に入ってまだほんの二年程である)これは単に本人の性格によるものが大きいのだろう。尤もそれは、ある意味彼の分までショックを受けている黄理が傍にいるからかもしれないが。
蹲って泣き出したい気持ちは千草が傍にいる事で辛うじて押し込められているだけで、一人きりであったのならば黄理はきっと牢から出る事すら出来ていない筈だ。トラップマスターに直接狙われない限りは、一人でも充分に地上に帰れるだけの実力を持っているにも関わらず。





下層に降りるに従って照明の数が少しずつ増えてきたとはいえ、先の見通しは決して良くない。長い階段を降りきった先、最初に千草の片足がフロアの床に接したのと、真正面から向けられた光によって足元が明るく照らし出されたのはほぼ同時だった。懐中電灯の狭く丸い光はピンポイントに千草の片足を照らし、薄闇の中に突然現れた白い眩しさに目が眩む。相手の気配を掴み損ねていた為にそれは完全に不意打ちで、ギクリと身を強張らせた千草は、けれど次の瞬間には床を蹴って前方へ駆け出していた。頭で考えて動いた訳ではなく、完全に反射的な行動だ。恐らく相手も照らそうと思って照らした訳ではなく、単なる偶然だったのだろう。自分で照らしたにも関わらず裏返った悲鳴を漏らした看守は完全に混乱している様子で、踵を返して逃げ出すのではなく何故か慌てて壁際へと縋り付いた。彼の手を離れた懐中電灯が落下して床と接触した為に、通路に高い音が響き渡る。それに紛れて聞こえた小さな音は何かのスイッチか、よく見れば壁面には幅10cm程のパネルのようなものが備え付けられていた。パネル中央に取り付けられたボタンは看守によって押し込まれ、赤く点灯している。

看守との距離はおよそ二十メートル程か。その距離を完全に詰める前に突如道を踏み外す感覚に襲われ、千草は大きく目を見開いた。石造りの床に突如大きな亀裂が入り、それが一気に崩壊する。床下は漆黒の空洞に繋がっており、それがどのくらいの深さの穴なのかは分からなかった。いずれにせよ自分を支えていた床が突然崩壊したのだから、その上にいた彼もまた、重力には逆らえない。

「!千草サン!」
「――来るな!!」

最初の反応が遅れた為に未だ階段の上に取り残されたままの黄理は思わず足を踏み出しかけたが、普段緩い口調の千草から飛んできた鋭い一声にビクリと身を竦ませて動きを止めた。階段下から直線状に十五メートル程、看守の押したスイッチによって突如生まれた深い落とし穴は崩壊する床ごと千草を飲み込もうとしたが、足を踏み外す前に彼が大半の距離を詰めていたのが命運を大きく分けたようだ。
落ちていく床の破片を僅かな足場に、落下しながらも跳ねるように先へと進む。黄理や桜夜ならばもっと余裕を持って渡りきったのだろうが、残念ながら千草は特別身軽な訳でも瞬発力がある訳でもなかった。しかしそれでも、彼とて精鋭護衛隊の隊員である。やや危なっかしくも幾つかの破片を踏み越えた千草は最後に大きめの破片を強く蹴り飛ばし、両手を伸ばして穴の淵に全力でしがみ付いた。反動で宙に浮いた両足が不安定に揺れ、間近で聞こえた落下していく床の破片の音が恐怖を煽る。自分一人の体重だけならばまだしも、仲間達の武器の重みが皮肉にも彼を穴の底へと引きずり落とそうとしているかのようだった。一瞬「何でこんなモン持ってこんなトコにぶら下がってんだ俺は」などと思ってしまった己を殴り飛ばしたくなりながらも、奥歯を噛み締め腕に力を込める。

ここで落ちる訳にはいかない。自分自身もそんなのは真っ平御免だが、何より目の前でそれを目撃する事になる黄理の精神が恐らく耐えきれないだろう。それだけは避けなければ。


「くっそ…!鴉ナメん、なぁーー!」


鴉隊員としての意地と、黄理の先輩としての意地と。噛み潰すような一声と共に力を込めた千草は腕の力だけで穴の淵から這い上がり、それどころか勢いをつけ過ぎてゴロリと前方に一回転しかけたが、背負った長い斧の先端が床に引っ掛かってそれ以上前へは進めずにそのまま横にバタリと倒れた。そこで動きを止める事なく両手を床について勢い良く身を起こすと、恐怖に満ちた顔でその様を見ていた看守の肩がビクリと跳ねる。無理もない、落とすつもりで作動させた仕掛けを目の前の男は踏み越えてきたのだから。
ゼエゼエと肩で息をつきながら立ち上がった千草は看守へ目を向けて、彼にしては珍しく静かな怒りを滲ませた瞳を緩く細めた。千草と同じくらいの年頃だろうか、まだ年若い看守は完全に怯えきっており壁に凭れるようにしてへたり込んでしまっている。ザリと床を擦ってゆっくりと看守の方へ足を向けながら、千草は口元を吊り上げて薄く笑った。いつもヘラヘラ笑っている男の口元だけの笑みはかなり凶悪だ。パシンと右の拳を左の手の平に叩き込むと、思った以上に力が入っていたのか良い音が出る。
「…お兄さんね、悪戯にしちゃあちょーーっと度が過ぎてんよ。死ぬかと思ったわ」
「ヒッ…!く、来るな!」
「あんねぇ…『来ないで下さい』、でしょうが!」
語尾を強めた声と共に叩き付けられた靴の裏は看守の顔面の丁度真横で派手な音を響かせ、その音で恐怖が最大限に達したのか看守は指一本触れられていないにも関わらず引き攣った悲鳴を最後にズルズルと横に倒れ込んでしまった。気絶してしまった看守を笑みを引っ込めて静かに見下ろした千草は、片足を壁に掛けた体勢はそのままに深々と長い嘆息を吐き出す。

「…まぁ、この場合は『来ないで下さい』言われても来るけどね…」

そんな理不尽な事を息切れの合間に小さく呟きながら。




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