目に見える外傷よりも内部のダメージの方が後を引くというのはよく聞く話。未だ視界が揺れているような感覚に、もう何度目になるか低い舌打ちを零しながら、紅蓮は一階のフロアへ続く最後の段を若干乱暴に上りきった。何段か下では同じく未だ半分目が回っているらしい碧がヨタヨタしながら紅蓮の後を追って一歩一歩ゆっくりと段を上っている。彼の動作のマイペースさに普段以上に苛付くのは、心に余裕がない為か。早く来いと無茶苦茶な一喝をしようと肩越しに振り返ろうとした紅蓮は、けれど結局それをやめて代わりに前方を見据えた。ホールのように開けた空間に伸びる細身の影は艶やかに光る靴に繋がっており、その足が一歩を踏み出すと高いヒールの音が床に跳ね返って反響する。
「――待ってたわよ、紅蓮」
「…紫桜音」
口の中で呟かれた名前は半分以上そのまま飲み込まれ、残りは苦々しい音となった。元々鋭い瞳が更に細くなり、強過ぎる程の眼光が目の前の女を射抜く。けれど彼女はまるでそれに気圧される事もなく、緩く波打った長い髪を気だるそうに片手で肩の後ろへ流すと低い位置で腕を組んだ。背後で碧がようやく階段を上りきった気配を感じながら、紅蓮は紫桜音から目線を逸らさないままに口を開く。
「何の用だ。テメェとつるむ気はねぇぜ」
「こっちから願い下げよ」
短く切り捨てて心底嫌そうに鼻を鳴らした紫桜音は一歩進んだだけで止めてしまっていた足を再度踏み出すと、数歩紅蓮の方へ距離を詰めた。それを黙って見やる紅蓮はその場から一歩も動かない。
「アンタ達、どういうつもり?無許可で地下に降りたんでしょう」
「それがどうした。まさかお説教じゃねぇだろうな」
「ふざけないでよ。アンタ達がどうなろうがあたしの知った事じゃないけど、それによってあたしの立場に影響があるのは許せないわ」
「何だ、コランダムの飼い犬に成り下がったのか。落ちたな、お前」
嘲るように吊り上がった紅蓮の口元に比例して紫桜音の眉間に皺が刻まれた。交わされる言葉の一つ一つは鋭利に尖っていて、目線は互いに相手を睨みつけたまま動かない。紅蓮の背後では碧が二人を見比べて蒼白の顔でオロオロしていたが、そんなものは既に二人の視界からは消えていた。
研ぎ澄まされた刃のように冷えて張り詰めた空気の中、先に動いたのはどちらだったか。僅かに開いた距離を一気に詰め、紅蓮の襟元をグイと掴み上げた紫桜音の手首を少年の手が強く掴み返す。ピタリと静止した動きの余韻で紫桜音の紫色の髪がフワリと靡き、紅蓮の背中で未だ色を失ったままの光石銃が小さく揺れた。至近距離で交わる鋭い眼光は、深みのある褐色と燃えるような紅。
「放しなさいよ」
「テメェがな」
どちらも一歩も譲らない。数秒無言で睨み合った傭兵達は、やがて互いに舌打ちと共に各々の手を振り払うようにして相手から引いた。けれどそれは引き下がったという意味ではない。掴まれた手首にうっすらと残った赤い痕を一撫でした紫桜音は、くっきりと皺がついた襟元を伸ばしている紅蓮を見下ろし――改めてその外傷の多さを見やって鼻で笑った。
「そういえばアンタ、随分ボロボロだけど。遊びに行って返り討ちじゃ話にならないわね。飼い犬以下よ」
「…言葉に気ぃつけろよババァ。地下に降りる勇気もないくせして」
「ふざけんじゃないわよ、クソガキ。降りる必要がなかっただけよ。…今迄は」
売り言葉に買い言葉。要はどちらも挑発され易いのだ。またも睨み合ったのは先程よりも短い時間。振り払うように逸らされた目線と同時に、苛立ちを含んだ高らかなヒールの音が一歩紅蓮から離れた。それは元の道を引き返すものではなく、進む為――たった今、紅蓮と碧が上ってきた階段を下りる為の一歩だ。
「アンタ達じゃ話にならない。あたしがさっさと終わらせてやるわ」
「へっ、出来るモンならやってみろ。――オイ、碧!行くぞ!」
「え、あ、ウ、ウン!待って、紅蓮〜」
紫桜音と同じように乱暴に足を踏み出した紅蓮に怒鳴られ、慌ててその場から足を踏み出した碧は不安げにチラリと紫桜音の方を盗み見たが、彼女は碧の事は完全に眼中になかったようで目線が交わる事はなかった。
階下へ降りる足音が一つ、擦り抜けるように真っ直ぐ先へ進む足音が二つ。互いの道を遮る事なく擦れ違って真逆の方向へ足を進める彼らは、相手の足音が遠ざかっても一度も振り返る事はなかった。
***
いつかの残像は砂嵐の向こう側。
忘れていた記憶
忘れたかった記憶
忘れられなかった記憶
全てを繋ぐ懐かしい歌は
果てしなく続く蒼空の下
今も、変わらぬ声で紡がれる。
恐れず手を伸ばした者だけが辿り着ける、あの場所で。