所々に橙色の光が灯った薄闇の中を駆け抜けていた晴は、長い間ずっと続いていた一本道が前方で枝分かれしている事に気付いて緩やかにスピードを落として足を止めた。足音が反響しながら消えていく通路の先、真っ直ぐ伸びた道の他にもう一本、階下へ降りる為の階段が左手に見える。右手側には小さなパネルのようなものが壁に張り付いていて、スライド式の扉がその先の道(或いは部屋か)を固く閉ざしていた。
(んっと…)
まずはぐるりと周囲を見渡して、トラップや人影が見当たらない事を確認するとパネルの傍まで歩み寄る。晴の目線よりも少し低いところに取り付けられたそれは、パスワードを入力する為の端末装置のようだったが(恐らく正しいパスワードを入力する事で閉ざされた扉が開くのだろう)当然ながら晴がパスワードを知っている筈もない。けれど、何に対しても深く考える事なく直感のままに動いてみるのが晴という少年だ。暫し気難しそうな顔でパネルを眺めていた晴は、無防備に片手を伸ばすとパネルに取り付けられた番号を続け様にいくつか押した。随分手慣れた調子で押したようにも見えるが、実際のところは全部適当に押しただけである。当然エラー音が響き渡り、晴は反射的にギクリと身を強張らせると跳ねるようにして一歩下がった。慌てて辺りを見渡すが、今の音でトラップが発動する事も誰かが現れるような事もない。それについてはひとまずホッと安堵の息を零すが、状況は変わらないまま。
「えー…?そんじゃあ〜…」
勿論「そんじゃあ」とは言ったが他に考えがあった訳ではない。単に適当に押すボタンの組み合わせを変えてみただけだ。そんな適当さを厳重に管理されている鋼の塔のセキュリティが許してくれる筈もなく、連続して響くエラー音に段々ボタンを押す指に怒りがこもってくる。特別短気という訳ではないが、この少年はとにかく難しい事や面倒臭い事が嫌いなのだ。何度目かのエラー音が響く中、ついに晴は苛々したように涙目でパネルを睨み付けた。
「んだよー!ふざけんなっつーの!」
別に誰もふざけてなどいないし(敢えて言うのならふざけた考えなのは彼の方だ)そう簡単に開いたらそれこそ問題だろう。それでも子供全開の幼い感情の前には冷静な正論など通用する筈もなく、悔しそうにジタバタと地団太を踏んだ晴は一向に開く気配のない扉を理不尽にも蹴り付けた。当然その程度の衝撃で壊れる事も開く事もなく、けれど思った以上に大きな音が通路に反響し(先程の連続したエラー音より大きかった)晴は再びギクリと身を竦ませる事になる。――が、幸いにもそれが原因で何かが起きたという事もないようだった。
これ以上ここにいてもパスワードが解けない以上は仕方ない。今は大丈夫だとしても、時間が経てばトラップや看守に見付かるかもしれないし。
結局消去法で残る選択肢は一つしかなく、それに気付いて恨めしそうに扉を見やった晴は仕方なくその場から足を踏み出した。左手の階段は下へ降りる為のものであるから、上を目指している晴には不要なものだ。つまり、扉が開かない以上、選ぶべき道は前に一つだけ。
「結局こっち行くしかねーじゃん!んだよ、もーっ!」
***
「…今、何か聞こえなかったか?」
看守室の入口付近、床で渦を巻いている使用目的不明のコードの束のようなものを足で隅の方に寄せながら、青威は顔だけを入口の方へ向けて部屋の外で待機している桜夜へ声を投げた。入ってきた時から室内が無人だったのは、たまたまここを使用している看守が見回りの仕事中なのだろう。室内の照明は切れていなかったしその辺に無造作に置かれた日用品もまだ新しいものが多く、人がいた形跡がしっかり残っていた。それ故、用心の為に扉は開きっ放しにしておいたし青威と瑠藍は室内に足を踏み入れたが桜夜だけは通路に残したままだ。勿論、通路といってもすぐそこなので、振り返れば彼女の姿はすぐに確認出来るのだが。
上司からの問いに一瞬きょとんと目を瞬かせた桜夜は慌てて注意深く周囲を見渡し、けれど異常を感知する事はなかったようで複雑そうな顔でかぶりを振る。
「スミマセン、私には何も…。人の気配もしませんし…」
「そか、空耳かな。ならいいや」
軽く片手を挙げてそれをヒラヒラと振ってみせるが、桜夜は青威の今の一言が気になったらしく表情を引き締めて周囲を警戒しているようだった。いらん事言ったかな、などと思いながらも警戒はしていて損ではないのでそのまま任せる事にする。代わりに部屋の奥へ目線を投げた青威は、何やら棚の上を漁ってる白衣の少年へ声を放った。
「おーい、瑠藍。まだ終わんねーのかぁ?あんま時間ねぇんだけど」
「分かっている、もう少し待ってくれ」
振り返りさえせずに返ってきた返事にやれやれと肩を竦めてみせる。一体この綺麗とは言い難い看守室に何があるというのか。いや、何か使えるものがないか一応確認していこうと言ったのは確かに青威だったのだが、まさか瑠藍がこんなに積極的にここに居座るとは思わなかったのだ。
部屋に足を踏み入れた時こそ潔癖そうに眉を顰めながらなるべく綺麗な足場を探していたくせに、一体何を見付けたのか、急に足早に奥の棚に向かった瑠藍はあれから何分か青威達に背を向けて一人で何かをやっている。別に隠しているようでもなかったので後ろから覗き見たのだが、何かを調合しているように見えた。それが彼の仕事上得たスキルなのか趣味で得たスキルなのかは分からなかったが、少なくとも青威には何をやっているのかまるで分からなかったのは確かだ。聞いてみようとしたのだが、仰ぎ見た瑠藍の横顔が『話しかけるな』オーラを出していたので結局やめたのだった。
(良くも悪くも典型的な学者肌っつーか…。けど、この状況で没頭され過ぎるのもいかんなぁ…)
胸中で苦笑混じりの小さな溜息をつきながら何気なく桜夜の方へ目を向けると、彼女も同じような事を考えていたのか少し困ったような苦笑が返ってくる。それに肩を竦めて応えながら、青威は仕方なく瑠藍の傍まで歩み寄った。そっとしておいてやりたいのは山々だが、現状はそうもいかないのだ。
「はい、タイムリミーット。時間ねぇんだってば」
「あぁ、今終わった。すまない」
肩を小突こうと挙げかけた手が瑠藍に触れる前に、彼はくるりとこちらを振り返った。その手には試験管のようなものが二本握られていたが、それが何なのかは勿論青威には分からない。先端はゴムのような蓋で栓がしてあり中には黒っぽい粉のようなものが入っているような気がしたが、じっくり見る前に瑠藍が自分の白衣のポケットにそれをしまい込んでしまった。
「…何だソレ」
不審気にチラリと瑠藍を仰ぎ見ると、彼は一瞬言葉に詰まったかのように表情を固めてぎこちなく目を逸らした。口籠るように数度何かを言いかけてはやめ、けれど隠す必要もないと判断したのか結局静かに口を開く。飛び出た単語は意外にもかなり物騒なもの。
「…何だ、その…爆薬というか…」
「爆薬ぅ?そんな物騒なモン置いてたかぁ?」
「いや、材料が揃っていたから調合した。時間がないから簡単にだが」
「簡単にって…言ってくれるぜ…」
呆れたように目を細めながらも内心かなり感心してしまった。青威は頭を使う職業の事はよく分からなかったが、爆薬の調合などその辺の研究員に出来るものではないのではないか。純粋に瑠藍の趣味の知識だったとしても、それを迷う事なく今ここで実践する辺り意外と肝が据わっているのかもしれない。フッと表情を緩めた青威は口元を吊り上げて悪戯っぽい笑顔で瑠藍を仰いだ。
「何だ、麻痺弾だけじゃ不満だったか?瑠藍がそんなに好戦的とは知らなかったぜ」
「ば、馬鹿な事言うな。別に人相手に使うつもりはない。ただ、あったら役に立つかもと…」
「わーってるよ、じょーだんじょーだん。怒るなって」
笑いながら『降参』のポーズを取るかのように両手を挙げて肩を竦めてみせるが軽く睨まれてしまった。マジで冗談通じねぇなー…などと思っていると、開きっ放しの扉の向こう側から窺うような桜夜の声。
「副長?瑠藍君?どうかしたんですか?まだかかります?」
「あ、いや、何もね!今行きま〜すっと」
面倒臭いやり取りから切り抜けるにはナイスタイミングだ。パチンと軽快に指を鳴らした青威は「行くぜ」と瑠藍の腕を軽く叩いて、くるりと踵を返すと鼻歌混じりに桜夜の方へ歩いて行く。一拍遅れて後に続いた瑠藍は未だ納得出来ないような苦い顔をしていたが、行き場のない文句は渋々飲み込むしかなかった。