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act:06-04

白い空間に声がひとつ、小さな波紋を広げた。

雫がポツリと落ちるかのように紡がれた綺麗な高音は、澄んだ響きを纏って空間に浸透していく。それから続けて流れるように聴こえてきた歌は、聴いた事もない筈なのに何故だか懐かしいメロディだった。決して賑やかではなく、寧ろ小声で囁くように歌うかのようなその歌は小鳥の囀りにも似ている。その歌に導かれるかのように、黄金の瞳がゆっくりと解放された。



顔だけを横向けにしてうつ伏せに倒れていた蒼姫は、ゆっくりと広がった視界に映し出された空間の奇妙さに一瞬思考を停止させた。伏せるように倒れていた為、目線の高さに地面があるのだが、それは先程仰いでいた空にそっくりな色の蒼だった。地面は冷たくも温かくもなく、硬くも柔らかくもない。地面に重なるように倒れている為半回転している視界は、遥か先まで終わりが見える事なく、空色の地面と平行に鏡合わせのような青空が頭上に広がっていた。つまり、上も下も空なのだ。ただし先程の雲ひとつない突き貫けるかのような青空と違い、ここの空には綿のような白い雲が所々に浮かんでいる。

(…何、ここ)

両手を地面についてゆっくりと起き上がると、力を加えたところが水面のように揺らいで足元の空に波紋が生まれた。そこでようやく気付く。地面の空は頭上の空を映し出しているだけなのだ。それは穏やかな水面のようで、けれど普通の水面とは決定的に異なっており、そこに触れて濡れる事もなければその上に立つ事も出来る。身動きすればその分波紋が広がるが、それは暫く経てば自然と消えていった。
今度は自由に体が動かせる事に内心ホッと安堵した蒼姫は、頭上の空と足元の空の間に立ちぐるりと視線を巡らせた。全方位、どこを見ても空と雲。その中にポツンと佇む小さな背中を見付けて、思わず訝しげに目を細める。


蒼姫から少し離れた場所、彼女に背中を向けた人影は少女のようだった。白い椅子に座り、靴も履かずに白い素足を垂らしている。背中に垂れた細い髪は蒼姫と同じ空色で、柔らかそうな素材の白いワンピースには細めの青いリボンがいくつかついていた。
蒼姫が目覚めるから聴こえている歌はどうやら彼女が歌っているもののようだった。子守唄のように心地良いその声は、どこかで聞いた事がある気もする。

彼女が何者なのか、いつからここにいるのか、蒼姫にはまるで分からない。けれどこちらが待っていたところで華奢な体はそこから動く様子もなく、代わりに蒼姫は自分から数歩彼女へ歩み寄った。警戒しながらも、けれど今はきっと自分から動かないとどうしようもないと判断したのだ。僅かに距離を保ったまま、けれど声が届く範囲で足を止めると細い背中を見据えて静かに口を開く。


「…貴方は誰?」


控えめながらもハッキリと投げられた言葉に反応したのか、綺麗な歌声が余韻を残して途切れた。音が全て消えた筈なのに、何故か居心地の悪い静寂は訪れない。とりあえずこちらの声は届いているようだと判断した蒼姫は、畳み掛けるように更に一歩だけ詰め寄った。
「ここは、何処なの?私はどうなったの?」
「――ここは」
振り返らないままに返ってきた静かな声に、蒼姫はギクリと動きを止めた。たった今一歩詰め寄ったばかりなのに、正直にも体は後ずさろうとしている。それを無理矢理押し留めたのはもはや意地に近かった。

聞いた事のある声の筈だ、彼女が紡いだのは蒼姫の声と同じものだったのだから。
歌っている時は自分には出せない種類の穏やかさだったから気付かなかったのだ。

同じ声、同じ髪の色、同じような体格。得体の知れない相手を前にして警戒心を露わに小さく身構えた蒼姫に、少女は背中を見せたままポツポツと言葉を返す。
「ここは私の夢。それから、貴方の夢」
「…何、ソレ」
「蒼の世界。私が望んだ、それからあの人も望んだ場所」
「…意味が分からないよ。あの人って誰?」
眉を顰めてかぶりを振るが、それに対する返事はなかった。歌声は止まったものの今度は身体で小さくリズムを取っているらしく、空色の頭が小さく揺れている。けれど動いているのは頭、それから上半身だけで、地面に接する事なく下ろされた足は微動だにしない。返ってくる気配のない返事を待つのも馬鹿らしくなり、蒼姫は小さく溜息をついて質問を変える。
「ここは貴方の夢って言った。だったらさっきのもそう?さっき私が見た光景、あれは貴方の夢?」
「――ううん」
返事は殆ど期待していなかったのだが、今度は意外にもハッキリと否定の言葉が返ってきた。小さくかぶりを振る様に長めの髪がサラサラと揺れる。
「夢じゃないよ。あれは私の記憶。そして貴方の記憶」
「私の?そんなの変だよ、だって私は知らない。あんな記憶、ない」

風が、どこからともなくザワリと吹き抜けた。
足元の空が風でその形を乱され、けれど波立つ事はなく景色を小さく歪めるだけ。

よく見れば、少女が座る白い椅子の足は地面と接していなかった。地面と椅子の間に僅かな隙間があり、少女は椅子ごと宙に浮かんでいるのだ。どういう仕掛けかまるで分らないが、上から吊られているような事もないようだ。
宙に浮かんだ椅子が足元の空を揺らす事なくゆっくりと半回転すると、それに座った少女もまた向きを変える。水平に半回転してようやく振り返った少女は、彼女の顔を見て息を呑んだ蒼姫に緩やかに微笑んだ。空と空に囲われた世界で、黄金の目線が初めて重なる。


「…貴方はちゃんと、憶えているよ」


金色の瞳、顔のパーツひとつひとつの作り。彼女のように微笑む事は蒼姫には出来なかったけれど、その顔は確かに蒼姫のものだった。
目を見開いて硬直した蒼姫と蒼姫の顔をした少女の間を、地面から唐突に生まれて飛び立った無数の白い鳥のようなものが遮った。切り絵のようなそれは大まかに鳥の形をしているだけで、紙のように薄っぺらく目も嘴も一枚一枚の羽もない。何百、何千という数の奇妙な鳥は空に向かって次々に羽ばたきながら二人の距離を白く埋めていく。驚いて反射的に伸ばした手すら届く事はなく、白い翼に囲まれた蒼姫は再び白い世界へ包まれていった。



白い空間にザラリとした砂が混ざり
砂の粒は徐々に大きく粗いものへと変わっていく。

砂嵐の渦の中へ落ちていくような、落下にも似た緩やかな意識の覚醒の中
ぼんやりと思い出した事が、ひとつ。



そうだ

あの時

強過ぎる翼の力に取り込まれそうになった時

頭の奥で響いた音――否、声は――





『かいほうして』





そう、あれは紛れもなく自分自身の声で
そうして、『彼女』の声でもあったのだ。




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