光が氾濫したかのような白い空間に徐々に色が混ざっていき、それはやがて輪郭を描き景色を創り出す。次に視界が白以外の色を映した時、目の前に広がる光景は先程の場所とは明らかに異なっていた。
足場を作る床には灰色の石が規則正しく敷き詰められており、降り注ぐ太陽の光を柔らかく反射している。視界の端の方には石を幾つか積み上げた石段のようなものが見えた。その先には青々とした草木が天に向かってその身を自由に伸ばしている。それは一見放置されているようで、けれどよくよく見れば手入れはきちんとされているようだ。生い茂ってはいるが、伸びきった草や枯れた葉は取り除かれている。
低い目線よりも上に広がる色は鮮やかな蒼のグラデーションだった。スッキリと澄み渡るそれは、先程の青いドーム型の部屋の色とは違うと一目で分かる。息を呑む程に美しく、眩暈を覚えそうな程の色――境界線の上の、本物の空。雲ひとつない青空は無限に広がり、吸い込まれてしまいそうな錯覚さえ覚える。
暫しその蒼を呼吸すら忘れて見つめていると、ふいに頭上を小さな影が横切った。鳥にしては大きく、飛空艇にしては小さい。尤も蒼姫は飛空艇というものをまだ見た事がなかったが、人が乗れる船なので最低限の大きさは想像出来る。反射的に上げた視界の中では、コウモリのような翼が逆光の中で動いていた。ゼンマイ仕掛けの玩具のような小さな音を鳴らしながら頭上を飛ぶその生き物は緩やかに蒼姫の頭上を旋回した後、気流に乗るかのような軽やかさで降りてくる。金属で作られた細い足が降り立った場所は、大きくて骨ばった手の甲。
(あの人、は――)
そこでようやく蒼姫は、自分と若干の距離を置いた直線状に見知った人物が立っている事に気付いた。けれど先程の銀鈴と同じで、彼もまた『蒼姫の知っている彼』ではないような気がする。若干幼くは見えるものの外見的には銀鈴の時ほど変わらない。それなのに何故だか取り巻く空気が別物のような気がして、それが余計に奇妙に思えるのだ。無機質で何を考えているのかまるで分からない『蒼姫の知っている彼』と違い、目の前の青年は随分雰囲気が柔らかいように感じた。空気が違うだけで、こんなにも別人のように思えてしまうのだから不思議なものだ。
「――あぁ、ちゃんと直ったようだな。問題なく動いている」
大人しく手の甲に止まっている鳥のような金属質の生き物を眺め、銀恢は緩く瞳を細めた。それを見上げる蒼姫の視点は先程と同じで、普通に立っている時よりも随分低い。ただでさえ銀恢との身長差はかなり開いているので、彼との距離が開いていなければ普段以上に首を曲げて彼を見なければいけなかっただろう。正直な話、蒼姫は彼の事が好きではなかったし目で追いたくもなかったのだが、やはりというべきか先程同様自分の意思で視点を動かす事が出来ない。けれど今目の前にいる銀恢は、その一挙一動を目で追うのも何故だか不快ではなかった。蒼姫の知っている銀恢とあまりにも雰囲気が違っていた為、純粋な好奇心が苦手意識に勝ったのかもしれない。
「まったく。こう見えて翼は結構頑丈に出来ているんだぞ?それを壊すとは…一体何をしたんだ」
「え、えへへ…。ちょっとね、遊んでたら壊れちゃって…ごめん、兄さん」
まただ。
また、やたら親しげに話す蒼姫の声が勝手に零れる。
銀鈴と話した時も言っていた『兄さん』はやはり銀恢の事のようだった。けれど、やはり蒼姫には彼らに対する兄弟の記憶はない。それなのに蒼姫の体は、蒼姫の声は、何の躊躇いもなく彼らを兄弟として慕っているのだ。
やれやれと嘆息する銀恢の問いを誤魔化すように照れ笑いを零した蒼姫は、その場から動かないままに両手を銀恢の方へ――正確にはその手に止まった生き物へ、差し出した。ヒラヒラと揺れる白い手が一人称の視界に近く映る。
「おいで、翼。ごめんね、仲直りしよう」
声に反応したのか、一瞬チラリと蒼姫の方を向いた人工の鳥――どうやら『翼(ヨク)』という名前らしい――は銀恢の手から飛び立つと、けれど蒼姫の元を擦り抜けるようにして再び上空へと舞い上がった。ポカンとその動きを目で追ってしまった後、蒼姫は差し出したままの両手を握り締めてそれを悔しげに振り回す。
「ちょっと!兄さんのところには行って何で私のところには来ないワケ!?」
「壊された恐怖を覚えていたんじゃないか」
「ひっどい!さては兄さん、自分だけ翼に好かれるようなプログラム組み込んだでしょ!?」
変な言いがかりをつけながら小さな拳を振り回す蒼姫を前に、銀恢は可笑しそうに吹き出した。蒼姫にとっては初めて見る表情だが、蒼姫の体は驚きや動揺を覚える事はなかったらしい。肩を震わせて笑う銀恢を前に暫く不貞腐れていた彼女はようやく拳を力無く下ろすと、溜息混じりに空を仰いだ。何にも遮られる事のない青空を背に、舞うように飛ぶ翼の影が時折影を落としてくる。
「あーあ…翼はいいよね…。あんなに自由に飛べてさ」
「…」
「ごめん、困らせて。兄さんが私の為に色々やってくれてる事は知ってる」
「…お前一人の為じゃない。俺も含めた、家族全員の為だ」
「うん、そう。そうだね」
一度視界が暗くなって、目を伏せたのだと理解する。
知ってるよ、と紡ぐ蒼姫の声は歌うように穏やかで小さな笑いさえ含んでいた。
知らない表情
知らない声音
知らない仕種
知らないやり取り
会話の意味が分からないのは勿論だが、それ以前に何もかもが蒼姫の知っている銀恢とは異なっていて、それが蒼姫を混乱させた。
そもそも目の前にいる青年は本当に銀恢なのか。銀鈴に対しては名前を呼んでいたけれど、彼に対しては『兄さん』としか呼んでいないから本当に本人かどうかは分からない。もしかしたら似ているだけで別人なのかも――
「――」
声が、思考を目の前の光景に引き戻す。ぼんやりしてしまっていたので銀恢が何と言ったのかは聞き逃したが、多分名前を呼んだのだろう。その証拠に伏せられていた蒼姫の瞳は再び開かれ、視界に銀恢を映していた。いつの間に近付いて来たのか、先程よりもずっと距離が近い。こうして近くから見ると、益々別人のように思えた。
「必ず、何とかしてやる。必ずだ」
「…うん」
「約束しよう。俺に任せておけ」
「……うん、ありがとう」
出来るだけ蒼姫と目線を合わせるように身を屈める、その黄金色の瞳は先程の銀鈴が見せた真っ直ぐな眼差しとよく似ていた。思えば銀恢と目が合ったのは初めてのような気がする。鋼の塔で時折蒼姫の元を訪れる彼は、こちらを見ていてもどこか違う次元を見ているかのような奇妙な眼差しをしていた。だから目線が合っているように見えても、実際は合った気がしなかったのだ。
緩く視界が細くなったという事は、蒼姫は彼に対して微笑んだのだろう。それを受けた銀恢の表情が更に和らぎ、大きな手の平が優しく蒼姫の頭を撫で――そうして蒼姫は再び視界が光に包まれているのに気付いた。先程と同じ、色味が光に塗り潰されて、髪を梳くような優しい手の平の感触さえも遠ざかる。
二度目はさほど驚かなかった。
分からない事だらけの中でこの状況を纏める為に行き着いた結論が、一つ。
これは意味のない単なる夢だ。
だから自分ではどうする事も出来ないし、見覚えなんてある筈もない。
最後に仰いだ、光と混じり合う白んだ空では未だ翼が緩やかに旋回していた。