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act:06-02

ノイズ混じりの世界はやがて暗闇に閉ざされて、全ての音が聞こえなくなった。一瞬、或いは長い時間(時間の感覚がまるで分からなかった)闇を漂った意識は小さな風の音と共に静かな覚醒を迎える。誰かに呼ばれたような気がして ゆっくりと開いた視界は真っ青な空間を映し出し、その光景に蒼姫は思わず息を呑んだ。



再び開いた世界の色は、閉じる前より随分明るく鮮やかだった。最初に目に飛び込んできた青さは、壁と天井の色なのだと理解する。濃い青色のペンキをひっくり返したかのような鮮やかさは、半覚醒の視界にいきなり映すには聊か目に痛い。塔を抜け出す前ならこれが空の色かと勘違いしたかもしれないが、あの時――塔を飛び降りる時に見た蒼さとは深みも鮮やかさも異なる色彩だった。
全く見覚えのないその部屋は、壁や天井は真っ青だったが床は白い。天井が綺麗な弧を描いているドーム型の広い部屋には本や人形、玩具のようなものが散乱しており子供部屋のように見えた。蒼姫以外に人影は見当たらず、誰かが部屋に入ってくる気配もない。少し高い位置にある窓は開け放たれており、そこからは濁った鉛色の雲が覗いていた。一度外に出たから分かる、あれは空と大地の間に広がる灰色の『境界線』だ。つまり、この場所は少なくとも鋼の塔上層部ではない。地上に近いせいか、人々の生活音が小さく聞こえる気がした。明確に何の音かまでは分からないが、完全な無音でない事は確かだ。

頬を撫でる風が心地良い。そういえば、塔内で自然の風を感じる事などなかったな、などと思いながら(彼女は常に幽閉状態だったのだから仕方ない)蒼姫は静かに視線を巡らせようとして――それが出来ない事にようやく気付き、ギクリと思考を停止させた。目線だけでなく、体も動かない。自分の体である筈なのに、まるで自由が利かないのだ。



動かない体

変えられない目線

零れない声


まるで借り物の体に意識だけ入っているかのような――



「――姉上っ!」
一人きりの空間に突如飛び込んできた声は聞き覚えがある声で、蒼姫は――正確に言えば『蒼姫の見ている視界』は、声の主の方を振り向いた。自動ドアを潜り抜けてパタパタと駆け寄ってきた少年は蒼姫も知っている人物だったが、彼女の知っている姿よりも何故だか妙に幼く見える。小さな少年を映す視界は彼を見上げる形で、そこでようやく蒼姫は自分が座っているのだと気付いた。自分の状態がこんなにも掴めないなんて今迄になかった事で、その奇妙さにゾッとする。
「姉上あのね、兄上が先に行っててって。だからさ、僕と先に行ってよう?」
妙に幼い姿をした銀鈴は姿に見合った幼い声を紡ぎながら、蒼姫の顔を窺うように覗き込んで小さく首を傾げてみせた。彼の言っている言葉の意味が分からずに首を捻ろうとした蒼姫の意思に反してまるで動かない体は、これまた蒼姫の意思に反して勝手に口を開くとどこか拗ねたような言葉を吐き出した。紡がれた音は確かに蒼姫の声だ。
「何ソレ。お昼は時間取れるって言ったのは兄さんなのに」
「んっと、急な仕事が入ったんだって。でもすぐ終わらせて早めに来るからって言ってたよ。白凪も一緒に」
「白凪も来れるの?だったら許してあげようかな」
ふ、と細くなった視界で自分が笑ったのだと理解する。

自分の体なのに感情すらも追い付かないこの状況は、つくづく奇妙で気味が悪い。けれど状況は蒼姫を待ってくれる筈もなく、彼女の常識を置き去りに進むだけだ。

蒼姫が笑った事で安心したのか、ニコリと可愛らしく笑った銀鈴は屈めていた身を起こしてくるりと蒼姫の後ろに回り込んだ。少年の姿が視界から消え、代わりに固定されていた視点が緩やかに動く。足元でキィと車輪が軋むような音がしたのは気のせいではないだろう。生憎自由に視点が動かせないので確認出来ないが、椅子に座っていると思っていた体はどうやら違うものに乗っていたらしい。
「大丈夫だよ、兄上は遅れるけど僕が一緒にいるからね」
「えー、それは私の台詞じゃないの?銀鈴ってば泣き虫だし。兄さんや私がいないと泣いちゃうもんね」
「む、僕そんなに泣いたりしないよ!」
からかい混じりの笑い声に反論してくる素直さは子供らしくて可愛いものだ。けれど蒼姫はこんなに子供らしい銀鈴は知らないし、彼とこんな風に親しく会話した事もない。


蒼姫と接する時の銀鈴は、いつもどこか陰った目をしていた。勿論、幼い好意や笑顔を見せてくれたりもするのだが、そこにはどこか一線置いた遠慮のようなものが見えたし接し方に戸惑っているような時もあった。

それは蒼姫が『実験体』だからではなく、何か別の――
あの少年が(恐らく)抱えているものを、蒼姫はまだ知らない。


困惑したところで状況が待ってくれる訳でも誰かが説明してくれる訳でもないのはもう分かった。複雑な感情を抱いたまま黙っていると、ふいに車輪の音が止まる。それと同時に自分で歩いてもいないのに勝手に前に進んでいた視界も止まり、小さく気配が動いて背後にいたらしい銀鈴が再び目の前に回り込んできた。
「…あのね、姉上」
じっと見つめてくる大きな金の瞳は幼いながらに真っ直ぐな眼差しで蒼姫を射抜き、そこに真摯な想いを映し出す。銀鈴の瞳に映る姿は確かに蒼姫のものであったが、それを見た蒼姫本人に一瞬妙な違和感を抱かせた。何かが違う、ような。
「僕は、その、兄上より全然…全然頼りないかもしれないけど」
少し言葉に迷うように言い淀みながらも銀鈴の目線が逸らされる事はない。それに応えるように瞬きすらなく銀鈴を見上げる蒼姫の視界は、鮮やかな黄金色を真正面から捉えたまま。視界の端で床がぼんやりと光っているように見えるのは、空色の部屋の中で床だけが浮かぶように白いからだろう。銀鈴の足元に落ちた黒い影は天井からの照明の光と混ざり合うようにして、元の色を僅かに明るく塗り替えている。斑のように小さく揺らぐその様は、色味こそ違えど水面に映った光のようで――


――揺らぐ?


サッと血の気が引くような感覚がした。
それは、気付いてはいけない事に気付いてしまった時のような。

彼は目の前から動いていない。
目線すら逸らす事なく静止している。
勿論 床自体は動いていないし、照明が揺れているような事もない。

だから
影だけが揺らぐ筈が、ない。


ザワリと駆け抜けた冷たいものは、けれどやはり動きには反映されなかった。斑模様の影が段々薄くなり徐々に明るく染まっていく足元はいつしか白く覆われて、それと比例するかのように銀鈴の声も薄れていく。けれど彼はそれにはまるで気付いていないかのようで――否、気付いていないというより寧ろそれは、蒼姫にしか見えていないかのような――

でもね、と続いた幼い声は光に飲まれてもう殆ど消えかかっていたが、蒼姫の鼓膜の奥に懐かしい音として確かに届いた。


「でもね、僕強くなるよ。強くなって、それで――」


足元が、崩れる。
硝子にひびが入って中心から割れるように。
グラリと傾いた筈の体は真下へ落下する事なく、足元から生まれた更に強い光が全てを塗り潰して白い世界を生み出した。




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