地鳴りのような重く響く音が背後から聞こえたような気がして
晴は思わず足を止めて、駆けてきた道を振り返った。
問答無用に黒斗に投げ飛ばされた先、紅蓮と碧が出てきた扉の奥は今迄と同じような暗い通路が続いていたが、所々に橙色の光を灯した小さな照明が柱に取り付けられていた為に完全な闇ではなくなっていた。道幅は若干狭く、大人二人が並んで移動するには少し厳しいかもしれない(碧がこの通路を通ってくるのは大変だったに違いない)。けれど特にトラップらしいトラップも見当たらず、通路も一本道だった為に迷う必要はまるでなかった。それなのに最初に一人で行動していた時よりも心に引っ掛かるものがあるのは、後ろに残してきた者達がいるせいか。
『足手纏いなんだよ』
目を合わせる事もなく黒斗が言ったあの一言。それは耳の奥に残ったまま消える事なく、何度も波紋のように広がっては静かに浸透して息を詰まらせる。
分かっていた、本当にそれだけが理由ではなかった事。
分かっていた、わざと突き放すような口調で冷たい言葉を放たれた事。
けれど、彼の言葉は確かに事実である事も。
足を止めて振り返ってみたものの、シンとした通路には何の気配もなく別段何かが変わったようにも思えなかった。もしかしたら黒斗の言葉を気にし過ぎて空耳でも聞こえてしまったのかもしれない。気のせいか、と小さく口の中で呟いて再度前に踏み出しかけた足は、けれど2,3歩進んだ後に停止した。
細い通路の真ん中に立ち止まったまま、緩く俯いて力なく開かれた手の平をぎゅうと握り締める。通路の端に取り付けられた橙色の照明がグッと口を引き結んだ横顔を照らし、足元の影は暗く濃く床に張り付いていた。
「…ちくしょ…。…黒斗のアホ…」
もっと強くならないと。
まだ、このままでは蒼(そら)どころか、地上にさえも届かない。
ただただ夢中に駆けるだけでは駄目だと思った。
けれど、足を止めるのはもっと駄目だと思った。
鮮やかな空に一滴の雨水が生まれ、快晴を僅かに滲ませる。それでも空は陰る事なく、それをそのまま手の甲でグイと拭った晴は、表情を引き締めると弾かれたように顔を上げ前方を真っ直ぐ見据えて駆け出した。
零さないように塞ぎ止めた涙には、幼いながらも真っ直ぐな誓い。
それを手放さないように、生傷だらけの手の平を強く握り締めて。
***
闇の中に反響する二つの足音は狭い間隔を徐々に緩めて、全力疾走から小走りへと変わりやがて停止した。足音が消えた通路には入れ替わるように今度は荒い呼吸音が満ちて、二つの影が身を屈めて立ち止まる。
硬い濃灰色の壁に片手をついてゼエゼエと息を切らす茶葵は、隣で壁に背を預けて天井を仰ぎ早い呼吸を繰り返す黒斗の向こう側――自分達がたった今駆けてきた暗い通路を振り返った。
「ここまで、来れば、大丈、夫…かな」
「そッス、ね……流石、に、ここまで、は…追っ、てこないっしょ…」
呼吸が整っていないのに無理に言葉を紡いだせいで、互いに妙な箇所で言葉が途切れ途切れになってしまう。先輩の言葉に何とか返事を返しながらもズルリと力なくその場にしゃがみ込んでしまった黒斗は、そのまま頭を下げて立てた膝に額を預けた。もはや顔を上げる気力もないのか、そのままの体勢で力なく片手を挙げてヒラリと振る。
「……スミマセン、30秒休ませて茶葵サン…」
「…オケ、俺も正直キツイ…」
苦笑混じりに息を吐き出した後に呼吸を整えようと大きく深呼吸をすると、地下刑務所独特の濁った空気が肺を満たしていった。
紅蓮を碧の方へ投げ飛ばした黒斗とそれを確認した茶葵が次に取った行動は『追撃する事』ではなく『全力で駆け出す事』だった。縺れ合って倒れた紅蓮と碧には目もくれず自分達の荷物を引っ掴むと一目散に駆け出した彼らは、ホールにあった三つの出口の内、床に面した右側の出口を選んで逃げ込むようにその道を全力疾走で駆け抜けてきたのだ。その一連の行動は何一つ打ち合わせしていないものだったが二人が互いに声かけをする事は一切なく、それなのに二人の行動パターンは全く同じものだった。それは同じ組織の中、同じ信念の下で戦ってきた二人だからこそ出来た事なのだろう。
紅蓮達がそれに気付いたかどうかは分からないが、これが彼ら――護衛隊である『鴉』の戦い方だった。何かを護る為に他を躊躇いなく切り捨てる。生きて地上に帰るという目的を護る為に、勝ちに拘ろうとするプライドを殺したのだ。確実に勝てそうな実力差のある相手でない場合、戦闘を長引かせたところで体力ばかりを無駄に消費してしまい最悪の場合負けて命を落としてしまう。それならば、隙を見て早めに切り上げ逃げる方がいい。大切なものを護る為であれば逃げる事に何の躊躇いもないし、たとえそれが愚かな行為だとしてもそれによって本当に護りたいものが護れるのならその選択は彼らにとって間違いではないのだから。
『そんじゃあ教えてやるよ。――護衛隊の戦い方ってヤツをさ』
放った言葉の通り、彼らは護衛隊としての戦い方を貫いたのだ。
それは彼らが護衛隊の地位から引き摺り下ろされても捨てなかった信念だった。
ようやく落ち着いてきた茶葵は大きく息を吐き出すと、屈めていた身をゆっくりと起こした。隣では未だ黒斗が(先程よりも大分落ち着いてはきているようだが)顔を伏せたまま肩で息をついている。
「…黒斗」
「はいぃ?」
声をかけていいものか少し悩んだ後に結局名を呼ぶと、幾分情けない声で返事が返ってきた。よっぽど疲れたのか、返事から大分遅れてようやくノロノロと顔が上げられる。その表情が隠す事もなく疲労を全面的に押し出していて茶葵は思わず苦笑を零した。そういえば、厄介な任務の後にも彼はこんな感じだった。そんなに遠い日の事ではないのに、何だか妙に懐かしい。
「久々に疲れたな」
「ですねー…あー、身体鈍ってんなぁ…」
もう言葉が妙なところで途切れる程の疲労はないようだ。はぁ、と嘆息を零した黒斗は、抱え込むように肩に立てかけた愛用の槍の刃が出たままだった事に気付いてそれを柄の中へ押し込んだ。普段はこうして刃を見せない為に、一見すると漆黒の棍に見える訳だ。それを眺めながら茶葵は黒斗の外傷をザッと観察する。
「怪我、痛むか?」
「んや、これくらい平気ッス。どっこも折れてねーみたいだし」
自分でも無事を確認するかのように片腕をグルグルと回した後に、鼻の下に血が乾燥してこびり付いている事に気付いてそれをゴシゴシと拭う。「これ止まってなかったらヤバかったかもしんねッス」などと笑う表情は実年齢以上に幼くて、茶葵は苦笑混じりに笑い返した後 ゆっくりと笑みを静かなものへと変えて翡翠色の瞳を細めた。
「…ごめんな、嫌な役やらせてさ」
「へ?何がですか?」
きょとんと瞬いた瞳は茶葵の言葉の意味が本気で分かっていない証拠。心底不思議そうに見上げてくる後輩は何一つ思い当たる事がないようで、茶葵は軽く肩を竦めて『嫌な役』が指すものを口に出した。
「晴の事。あの性格から考えて大人しく先に行くような子じゃないし、どうせお前酷い事言って悪役になったんだろ」
緩く瞳を伏せて笑うと、一瞬息を詰まらせたような気配が伝わってくる。チラリと目線を上げて黒斗の様子を盗み見ると、彼はまさかそこに触れてくるとは思っていなかったのか微妙な表情でウロウロと目線を彷徨わせていた。
「…酷い事っつーか…事実ッスよ」
ようやく返ってきた反論は、けれど妙に音量が小さくて目線はやはり気まずそうに逸らされている。分かり易いその様に茶葵は思わず吹き出して、黒斗は一瞬ポカンと先輩を見上げた後に慌てて勢い良く立ち上がった。
「ちょっ、何笑ってんスか!」
「い、いや、ごめん。分かり易いなと思って…」
「何がッスか!…ていうか、そもそも悪役でいいんスよ!俺、空賊嫌いだし」
「でも『空賊』じゃなくて『晴』は嫌いじゃないだろ?」
笑いを引っ込めながらも優しく問われた言葉に黒斗は一瞬動きを止めて、けれど次の瞬間には勢い良く顔を背ける。
「――っ嫌いッスよ!ピーピー泣くしウゼーしガキんちょだし人の話聞かねぇし緊張感まるでねぇし、そんで…」
「ハイハイ、分かった分かった」
「茶葵サン!ぜってー誤解してるっしょ!」
もはや何を言っても分かって貰えないと判断したのか、黒斗は「クソ」と小さく毒づいて(先輩相手に随分態度が悪い)居心地悪そうに首筋辺りを掻く。その後、何かを思い出したように一瞬動きを止めると彼は首筋に添えた手をゆっくりと下ろして改めて茶葵に向き直った。
「…つか、さっきの戦闘スミマセンした。俺のミスで茶葵さん怪我しちまって…」
「あぁ、気にするなよ あのくらい。銃でガードしたから思った以上にダメージ受けなかったし」
丁度いいからそのまま倒れて機会窺ってた、などと何気に酷い真実を暴露しながらも明るく笑う茶葵は、どこか沈んだ表情の黒斗の肩を軽く叩く。
「黒斗こそ軽快トークの時間稼ぎサンキュな。おかげで光石の力最大限に引き出せた」
「軽快かどうかは謎でしたけどね…。つか、時間稼ぎっつーより正直な話、五連の光石くらいで調子こいてっから何か腹立っちまって」
紅蓮の事を思い出してか、嫌そうに顔を顰める黒斗は忘れずに持ってきた彼らの荷物――大きめの布袋を軽くポンと叩いた。袋の中で何か固いものがぶつかるような小さな音がして、彼はどこか懐かしいものを眺めるような目でゆっくりと瞳を細める。漆黒がどこか柔らかに染まったのは、今はここにいない、けれど絆が繋ぐ相手を想ってか。
「…皆、無事ですよね」
「当たり前だろ」
「あんな火遊びチビ助より、ぜってーこっちのがスゲェのに」
「はは、そうだな」
どこか子供じみた呟きに笑いながら、けれど否定する事なく頷いて「さて」と両手を腰に当てる。
「そろそろ行くか。軽く走れるか?」
「ウス!いけますっ!」
「うん、いい返事だ」
にこりと笑ってポンと肩を叩くと、漆黒の瞳が照れ臭そうに笑った。
***
目の前が白く染まって、それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
自分的には時間が過ぎていった感覚はないのだが、実際の空白時間は定かではない。
ハッと見開いた瞳に映るのは光が降り注ぐ白い天井。それに驚いて跳ねるように飛び起きるとクラリと眩暈がして視界が歪む。思わず片膝をついて身を支えた紅蓮はそのまま腰を下ろして床の上に座り込み、グラグラと揺れる視界に吐きそうになりながら小さく呻いた。横目でノロノロと隣に目を向けると、碧が目を回して倒れている。先程と同じホールの真ん中で、けれど先程まで戦っていた二人組の姿は既になかった。
黒斗の武器が突然『伸びて』、碧の方へ投げ飛ばされたところまでは覚えている。途切れた記憶を推測で繋げていくと、どうやら碧とお互いに頭をぶつけ合って倒れたのだという結論に行き着いた。軽い脳震盪を起こしたのだろう、気絶状態に陥った自分達に、けれど相手が追撃した様子はない。無防備な間に容易く殺す事も出来ただろうに、何故か自分達は二人共こうして生きている。あの二人組にどういう思惑があったのかは分からないが、結果的に彼らに生かされたのだ。
「――っナメやがって!」
ダン!と強く拳を床に叩き付けるとジンワリと痺れるような痛みが伝わってきた。それすらプライドを傷付けられた痛みに比べればどうという事はない。本来ならば今すぐにでも追いかけて再戦したかったが、彼らがどの道を通って行ったのかすら分からない今、それは不可能な事だった。近くに落ちていた自分の銃器(自慢の五連光石はあの焔色の光に触れてからというもの白っぽく変色してしまった。何故だかは分からないが力が一時的に封じられてしまったようだ)を手繰り寄せ、その場でゆっくりと立ち上がる。ジロリと見やった先の碧は未だ起きる様子はなかった。
「碧、起きろ!いつまで寝てんだ!!」
やりきれない怒りを無理矢理飲み込める程、大人びた性格ではない。
硬い靴底が碧の脇腹辺りを蹴り飛ばす、八つ当たりの音が響き渡った。