幼く単純な暴言は涙声でホールに響き渡り、それと同時にバタバタと慌しい足音が遠ざかっていく。晴の残していった全ての音にも表情一つ変える事のなかった黒斗は、それでも幼い空賊の気配が消えかかる頃ようやく小さく肩を竦めて嘆息を零してみせた。
「…誰がアホだ。こっちの台詞だっつーに…」
「――オイ」
低い声に目を向けると、やはりというべきか怒り心頭に発した紅の瞳が睨みつけてくる。無理もない、元はといえば彼が一番腹を立てていたのは晴の無遠慮な一言で、その晴がこの場から(本人の意思ではないにしても)戦線離脱したのだから。
「やってくれたじゃねぇか。ガキんちょ一人で逃がすとはな。美しい友情ってヤツか?」
「オイオイ、勘弁してくれよ」
心底嫌そうに顔を顰めて、黒斗は緩くかぶりを振った。敵前で随分と余裕のある仕種だが紅蓮との距離はそれなりに開いたままであるし、碧は紅蓮よりも更に後方で晴が駆けて行った通路と紅蓮をオロオロしながら見比べているだけだ。彼らが瞬時に攻撃に移れるとは考え辛い。
「聞いてなかったのか?足手纏いなんだよアイツ」
先程晴に向けたものと似たような台詞は、けれど先程のような冷たさはなく、言葉に反して随分穏やかに場に溶けた。それとほぼ同時――それはまるで緩やかな言葉の温度変化と合わせたかのように、ジリジリと上がるばかりだった室内の熱が突如掻き消える。
「――!」
それは文字通り『突然に』。今の今まで勢い良く燃え盛っていた炎は、床に焦げ痕だけを残して一瞬の内に消失した。まるで最初からそこには何もなかったかのように。流石に驚いたのか目を見開く紅蓮とポカンと口を半開きにしたままの碧の目線の先、焦げた床を何事もなかったかのように踏み越えてきた茶葵はチラリとその場を一瞥して黒斗の数歩後ろで足を止めた。
「黒斗、晴は」
「先行きました」
「…そうか」
短い返答にも大して動じる事がなかったのは、そうなっている事を予想していたからか。落ち着いた調子で、けれど表情は引き締めたまま目の前の敵を見据える茶葵の手の中では銃の表面に取り付けられた光石が淡く輝いていた。
「――次から次に、お前らよぉ…」
俯きがちに零された言葉は明らかに怒気に包まれていて、紅蓮の口元が薄く吊り上がった。口元は笑っているのに目は笑っていない。ただでさえ目つきの悪い三白眼は益々鋭く吊り上がり、呼応するかのように赤い光石が光を纏っていく。
「俺様をナメんのも大概にしとけよ。手加減出来なくなっちまうだろ」
「光栄だね。ヘタに手加減されちゃあこっちも面白くねぇしな」
「――ってめぇ!」
薄く笑って返した黒斗の軽口にも律儀に反応して、紅蓮は赤い光を放つ銃を手にしたままその場から跳ねるようにして大きく踏み込んできた。身の丈ほどもある大きな銃器が武器である事から流石に飛び掛ってくる事はないだろうと踏んでいた茶葵と黒斗は多少なりとも驚いたようだったが、やはりと言うべきか紅蓮は接近戦は専門外であるらしい。二人の内、黒斗に狙いをつけて振り切られたのは本来そういう使い方をするべきでない銃器で、重さからかその動きは接近戦慣れしている黒斗にとって大した脅威とはならなかった。この小さな身体で大きな銃器を振り回せたのは意外だったが、怒りに身を任せているからか攻撃は単純で充分に動きを目で追える。目の前を横切る残像を落ち着いて眺めながら後ろ向きに飛び退いた黒斗に、けれど紅蓮は続けて銃を振り回す事はせずにただ一言、高らかに相方の名を呼んだ。
「――碧!」
「!黒斗、上だ!」
それは紅蓮の声とほぼ同時に。黒斗の頭上からフッと差した影に最初に反応したのは狙われた黒斗本人ではなく、少し間合いを取るように後方に引いていた茶葵だった。いつになく鋭く飛んできた先輩の警告に反射的に顔を上げた黒斗は、そこに迫り来る巨大な拳を見付けて大きく目を見開く。
「――ゴメンね」
小さく聞こえた謝罪の声は確かに碧のものではあったが、そこに先程までのおどおどした弱気さはない。彼との距離は大分開いていた筈なのにいつの間に近付いて来ていたのか、鈍く光る金属の手甲に覆われた拳は黒斗のほぼ真上から彼を押し潰すかのように振り下ろされた。
「!う、おっ!?」
状況を理解するよりも先に身体が動いたのは、それなりに積まれた戦闘経験によるものか。位置を完全に捉えられた状態であったにも関わらず転げるように飛び退いた黒斗は間一髪で直撃を回避し、黒斗の爪先辺りを掠めた碧の拳はそのまま空を切って床に叩き付けられた。瞬間、拳を中心にクレーターのように床が円形に陥没し、砕けた床の破片が頭上高くまで飛ばされ重力に従ってそのままバラバラと降り注ぐ。その破壊力は一目瞭然で、直撃は逃れたものの拳を振り下ろした風圧だけで軽く吹き飛ばされた黒斗は、飛んでくる石礫(いしつぶて)から片腕で顔を庇いながらゾッとするような思いで巨体の戦士を視界に認めた。拳が靴の先を掠めただけだというのに、爪先が痺れるように痛い。あれが直撃したら、と考えるだけで背筋が冷えるが、悠長に立ち止まっている訳にもいかないのだ。何故なら敵は二人いるのだから。
「―っ!」
ふいに耳に届いたのは、空気が振動するかのような聞き覚えのある嫌な音。反射的に振り返った先では既に完成された赤い紋様が思った以上に至近距離で輝いていて、黒斗はぎょっと目を見開きながらも直後に放たれた直線上の炎のラインを横に転げるようにしてかわした。黒斗の残像だけを焼いてそのまま空中を直進する火柱は、碧の第二撃目をかわしていた茶葵の上着の端を微かに焦がして遠くで爆発を起こす。
「さっきの威勢はどうした?逃げるばっかだなぁ?」
口元を吊り上げて笑う紅蓮に、先程 黒斗の挑発に乗った時の単純な怒りはない。もしかしたら挑発に乗ったように見えたのも自分達の戦い方に誘い込む為の演技だったのかもしれないが、黒斗と茶葵的には今となってはどうでもいい事だった。碧が力技で押している間に紅蓮が光石銃の力を溜めて放出する、それが彼らのやり方なのだろう。止まらない猛攻に茶葵も黒斗も息をつく暇すらない。
「フン、逃げ足ばっか速ぇんだな。元は傭兵か何かか……あぁ、そうか、分かったぜ」
床は既に殆どの面積が陥没しており、一度完全に消えた筈の炎の壁があちこちで再び燃え盛っていた。もう何度目になるか、光石銃の力を溜めながら紅蓮は何かに気付いたように片眉を上げてみせる。尤も、茶葵にも黒斗にもそんな彼の仕種を眺めている余裕などないのだが、声だけは音として自然と彼らの耳に届いた。
「お前らが『鴉』か。話には聞いてるぜ、役に立たねぇ護衛隊」
瞬間、逃げ回る二人の目の色が変わった事に紅蓮は気付かなかったらしい。弾き飛ばされた石礫が頭上から降り注ぐ中、碧から一定の距離を取る為に逃げかけていた黒斗は途中で足を踏み締めてその場に留まると、腕を振り下ろしたばかりの碧に向かって唐突に駆け出した。
「――え」
無謀とも取れるその行動は流石に予想していなかったのだろう。驚いて目を見開いた碧は、それでも反射的に身を捩ってホールを破壊し続けた巨大な手を振り回す。その手が間合いに入った黒斗の頬辺りを掠めて漆黒の頭がグラリと揺れたが、それでも碧に向かう足が止まる事はなかった。至近距離で跳躍し、混乱して振り回される腕を踏み台にして更に高く跳び上がると、大きく振り下ろされた漆黒の棍が碧の右肩の付け根辺りを強く叩く。正直な話大した手応えはなかったのだが、それでも痛みを与える事は出来たらしい。悲鳴と共に暴れ出した碧は攻撃を食らった肩を押さえて盛大に喚き散らす。痛みで暴れる碧に弾き飛ばされた黒斗は丁度茶葵の足元に転げるようにして叩き付けられ、即座に彼に助け起こされた。茶葵の手を借りながらもフラリと立ち上がった黒斗は、プッと床に向かって血混じりの唾液を吐き飛ばすと薄く笑う。漆黒の瞳に滾るような怒りを滲ませ、先程の紅蓮と同じように口元だけで。
「オイオイ、『役に立たねぇ護衛隊』に一撃貰ってんじゃねぇよ」
「!てめぇ――」
「まぁ、そこまで分かってんなら話は早ぇや。ねぇ、茶葵サン?」
「…あぁ、そうだな黒斗」
黒斗と違い、無謀な行動には出なかった茶葵も落ち着いているように見えて先程までとは明らかに表情が違う。凛と前方を見据える瞳には静かな怒りが混じっていて、引き締まった表情は先程よりも幾分硬く見えた。碧の拳が掠めた時か、それとも床に叩き付けられた時か、気付かない間に微かに滲んでいた鼻血を親指で無造作に拭い取ると、黒斗は片手で棍を軽く振る。ヒュッと空を切る音が高く響く中、隣で茶葵も静かに自身の銃のトリガーに手をかけていた。未だ痛い痛いと喚いている碧を一喝している紅蓮へ、漆黒の棍の先がゆっくりと向けられてピタリと静止する。
「そんじゃあ教えてやるよ。――護衛隊の戦い方ってヤツをさ」
譲れないものがあった。
退けない理由があった。
唯一手放さなかった誇りを護る為、挑発だと分かっていてもここで黙っている事など出来なかった。