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譲れないものがあった。


罪を被って

闇に落とされ

たとえ

他の全てを失う事になっても。




一つだけ大事に抱え込んだ確かなものを
傷だらけの手の平に握り締めて


仰ぎ見る蒼は、まだ遠い。










act 05 : 焔の信念



鋼の塔の中で主に一般に公開出来る研究所として機能している、地上から灰雲の境界線に届くまでの階層の事を『中層部』と呼ぶ。中層部の廊下は上層部のそれと同じように薄灰色の壁と天井、床に囲まれ、廊下としての必要最低限の機能しか果たしていない為に無機質で殺風景な印象を与えるものだった。けれど恐らく塔内で最も人の行き来が多いこの場所は、上層部よりも廊下の幅は広く取ってあるし下層部のように暗く過ごし難い事もない。自然の太陽光ではないにしろ、均等感覚に天井に取り付けられた照明は一日中消える事なく明るい光で廊下を照らしていた。
人の行き来が多いとは言ってもその大半は忙しそうに歩き回る研究員達か、上からの命令を受けて仕事に出掛ける(或いは仕事の報告にやって来る)傭兵達で、立ち止まって雑談している者などはそういない。それ故、この廊下がざわついた空気で満ちているという事態は非常に珍しい事だった。



「…一体何の騒ぎなの」
床に跳ね返るヒールの音と共に姿を見せた紫桜音は慌しく走り回っていた研究員の一人を威圧感で引き止めて、長い睫毛の奥から気だるそうな視線と共に問いを投げた。彼女がこのフロアにやって来たのはたった今だが、足を踏み入れたその一瞬でいつもと違う空気感を察したのだ。廊下に漏れる程の話し声といつもよりも多い人の気配、擦れ違う研究員や傭兵達は大半の者が急ぎ足か小走りで紫桜音の脇を擦り抜けるようにして通り過ぎて行く。
紫桜音を後ろから追い越した際に腕を掴まれて彼女に引き止められたのは、20代半ば程かまだ歳若い青年だった。驚いて足を止めた後に自分を引き止めた人物が誰であるのかを理解して思わず身を竦ませた研究員の青年は、言っても良いものかと困ったように視線を彷徨わせてから結局おずおずと口を開く。
「…銀鈴様の仕事部屋が破壊されまして…その修復作業中です」
「坊やの?」
片眉を上げて僅かに首を捻ると、カールした紫色の長い髪がフワリと肩から滑り落ちた。それには構わずに、続け様に問いを幾つか投げ掛ける。
「坊やの仕事部屋は立ち入り禁止じゃなかったかしら。そもそも破壊ってどういう事なの。敵襲って事?」
「い、いえ…詳しくは分かりませんが、何でも小さい男と大きい男の組み合わせが突然 部屋のドアを破壊したらしく…」
どうもコランダムの傭兵のようなのですが、と続ける言葉を聞くまでもなくそれが誰の仕業であるのかを理解して、紫桜音は不愉快そうに眉根を寄せた。一気に嫌な方向へ変わった空気に青年が気付かない筈もなく、彼は身構えるように身を硬くしたが幸いな事に目の前でパタパタと片手を振られて思わず胸中で安堵の息を吐き出す。どうやら、八つ当たりを受けずに退散出来そうだ。
「いいわ、行きなさい」
「は、はい。失礼します」
ぺこりと会釈して再度駆け出していく研究員の後姿を見送りながら、紫桜音は眉根を寄せたまま苛々と鮮やかな紅の唇を軽く噛んだ。じんわりと伝わる痛みも気にならない程、気が立っているのが自分で分かる。
「…紅蓮のヤツ、勝手な事を…!これだから馬鹿なガキは嫌いなのよ…!」
小さく毒吐くように零したのは完全に独り言のつもりだった。現に先程の研究員の背中にすら届いてはいなかっただろう。だから彼女の背後から律儀にも反応が返されたのは、完全に予想外という事になる。

「――その点については同意します」
「!」

背後から割り込んだ静かな声に驚いて、身体ごと振り返る。それが誰であるのかは声を聞く事で一瞬で分かったのだが、いつからそこに立っていたのかまでは分からなかった。紫桜音から数メートルの距離を置いて、皺一つないスーツを身に纏って立っていたのはコランダム社長秘書。いつもの無表情な顔で紫桜音を視界に入れたまま、背筋を伸ばして姿勢良く立つその姿は凛と咲く一輪の花を思わせる。
ここは鋼の塔であるのだから、コランダム社長秘書である彼女が我が物顔でその辺を歩いていても何ら不思議ではない。仕事部屋の主である少年が姿を見せないのは妙だが、おおよそこの秘書が彼の代わりに事態を収拾すべく出向いたのだとかそんなところだろう。そう、そんな事は大して驚くような事ではないのだ。紫桜音にとって驚くべき事はもっと別のところにあった。


紫桜音は元々コランダムの関係者ではなく、その腕を買われて特別な契約でコランダムに雇われている傭兵である。彼女の場合『特別な契約』によって、コランダムに雇われている一般の傭兵と比べると契約内容が遥かに自由で給与も高い。それは彼女がその辺の傭兵よりも遥かに高い実力を持っている証拠だった。少なくとも、雇われる身分でありながらある程度の条件を雇い主に提示出来るくらいの立ち位置は持っている。仕事を得られるだけで満足し一方的な契約内容に従うしかないその辺の傭兵とは違い、彼女は自分で仕事を選ぶ事が出来るのだ。

それ程の実力を持っているにも関わらず、今、彼女は『気配に気付けなかった』。
そう、『ただの社長秘書』に対して。


警戒心を強めて黙って睨むように見据えてくる紫桜音の視線を軽やかに受け流して、白凪はやれやれとでも言うように静かにかぶりを振った。仕種だけなら『呆れ混じり』という風にも見られるのだが、実際のところその表情を読み取る事は難しい。
「本当に…勝手な事をされては困ります。あの二人、…それから貴女も」
スイと投げられた銀の目線が、紫桜音の白い首筋に残った一本の浅い傷を静かに捉えた。浅い傷だった為に血もすっかり止まっていたそれは、敵わない絶対的な力関係を刻むように未だ細い首筋に残っている。多くを語らずに含みを持たせた物言いをしてくる女を前に、紫桜音はその無機質な目線を振り切るかのようにフンと鼻を鳴らして挑戦的に腕を組んだ。
「あたし達の契約は『何をしても自由』の筈よ。アンタにとやかく言われる筋合いはないわ」
「『依頼をこなし、ここでの規則を守って貰えれば』の話です。お忘れですか?」
攻撃的な物言いにも白凪の感情が乱れる事はない。それが余計に癇に障って、紫桜音は遠慮なく苛々と舌打ちを零した。
「アンタ達の命令を守ってくれる忠実な奴らを早々に切り捨てるから悪いのよ」
「…鴉の事を言っているのなら」
ゆっくりと一度伏せられた瞳が再度銀の光を零す。真っ直ぐに投げられた目線は紫桜音を捉えて静かに停止した。
「事情を知って反発した彼らを傍に置いておくのは非常に危険だという判断です。彼らは確かに忠実ですが、その忠誠心が必ずしも社長に向いている訳ではありません」
「そう、でも戦力ダウンしたのは間違いないのよね。だから あたしや紅蓮、碧みたいなのを雇ってるんでしょう?」
「余計な詮索が趣味なのですか?貴女はこちらの事情には興味がないものだと思っていましたが…意外ですね」
「…」
「…」
鋭い目線と無表情の目線が交差し、暫し沈黙が訪れた。その場から一歩も動かずに一言も声を発さずに、けれど目線は相手から逸らされる事なく展開された無言の闘いは、張り詰めた空気を残したままやがて静かに終わりを迎える。勝敗は勿論、当人達にしか分からない。或いは、ここは引き分けたのか。
「…あたしはあたしのやりたいようにやるわ。文句はない筈よ」
「どうぞ。契約内容さえ守って頂ければ、それで構いません」
ただし、と付け足して銀の瞳が僅かに細くなる。その硝子のような色の中に、確かに鋭い光が宿ったのを紫桜音は見た。

「羽目を外し過ぎないように。この場に無能は必要ありませんので」

きっぱりと言い切って足を踏み出した白凪をきつく睨みつけた後、紫桜音もまた目線を振り切って足を踏み出す。丁度お互いの進行方向が重なるように、二つの影が一度だけ交わって離れた。

擦れ違う瞬間もその後も、二人が互いを見ようとする事はなかった。




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