蒼姫のいた白い部屋から退出後、直線上に伸びた廊下の突き当たりで白凪はエレベータ待ちをしている銀鈴の小さな背中に追いついた。タイミング悪くエレベータが捕まらなかったのだろう。先に部屋を出たとはいってもエレベータでの移動が主となるこの上層部では、エレベータ待ちで時間を取られる事も多い。わざわざ銀鈴に追いつくように部屋を出た訳ではなかったが、彼と同じエレベータを待つ事には白凪的に何の問題もなく、そのまま常と同じ調子で歩いてきた彼女は少年から二歩程退いたところで足を止めてその場に立ち止まった。けれど、たとえ彼女が何の気にもしていないにしても、半ば八つ当たり気味に部屋を出てきた銀鈴からしてみれば気まずい事この上ない空間である。背後に静かに控えた気配を感じながら、仕方なく銀鈴は小さく口を開いた。流石に振り返る事は出来なかったが、この気まずい(と思っているのは恐らく銀鈴だけだが)沈黙を何とかしなければならない。
「…兄上は?一緒じゃないの?」
「はい、社長は只今会議中です」
事務的な切り返しは銀鈴の予想通りいつもと同じで、内心小さく息を吐き出す。それが安堵のものなのか、それとも自分ばかり無駄に気にしている事に対する虚しさのものなのかは本人にもよく分かっていないようだったが。
なるべく平静を装いながら、再度口を開く。近い距離の二人で話す会話なので当然音量もさほど大きくはなく、ポツポツと零れるように言葉が床の上に落ちた。
「白凪はついてなくていいの?」
「私は入室を許されていません。会議が終わる時間にまたお伺いする予定です」
側近の者でさえ入室を許可されていない会議といえば、各都市の重要人物が集まる統治会議だ。スカイリアに築かれた七つの主要都市の重要人物が定期的に集まり、お互いに情報や意見を交換する場である。会議の内容は幅広く、その中で統治の方向性や問題についても話し合われる事が多い。尤も彼らはそれぞれ忙しい身である為に直接会って会議をする訳ではなく、回線を繋いでデジタル空間の中で会議を行う。つまり、銀恢は会議中だと言っても仕事場でもある自室にいるという事なのだ。勿論、確かに会議中ではあるのだが。
会議に集まる重要人物の中でも更に決定権を持つのがセブンスルーラーと呼ばれる各主要都市の代表七人で(それ故、彼らが集まるその会議は通称ルーラー会議と呼ばれている)銀恢はコランダム社長であると共に王都スティリックの代表――セブンスルーラーの一人でもあった。
彼らは代表ではあるが統治者ではない。しかし纏めた意見を本来の統治者(例えば、王都であれば都市を治めている王族が存在する)に報告するのも彼らの仕事で、都市によっては実質統治の権利を得ているのもこのセブンスルーラーであった。言い方は悪いが、信頼が高ければ高い程統治者は意見の言いなりになる事が多い。
白凪の返事でルーラー会議という事を聡く理解した銀鈴は「そう」と小さな相槌を打って、エレベータ上部の停止階を表すランプへ目線を投げた。荷物の積み下ろしでもしているのか、ランプは先程から下の方の階で止まったままなかなか動かない。再び訪れようとした沈黙を破って、声を紡いだのは珍しく白凪の方だった。
「…社長には黙っておきますので」
一瞬、何の事か分からなかった。その言葉の意味よりも、彼女が銀恢に『黙っておく』事の方が意外で思わず目を瞠る。彼らの関係は単なる社長と秘書の関係というよりも主人と従者のそれに近く、白凪は銀恢に対して絶対的な忠誠心を持っている事を銀鈴は知っていた為だ。だから彼女は、彼女の判断に任されている事以外なら小さな事でも逐一銀恢に報告する。それが仕事絡みなら尚更だ。少なからず驚きながら、そこでようやく肩越しに白凪を振り仰ぐ。その頃には彼女の言った言葉の意味――『仕事を最後までやらずに上層部に来ていた事』を黙っておく、という事――も、理解していた。
「僕の事?…どうせバレるよ」
驚きをなるべく表に出さないようにしながら緩く瞳を細めると、どこか拗ねたような声音が出た。けれどそれに白凪は「いえ」と小さく呟くと、一度だけ静かにかぶりを振る。
「それでもその後に問題がなければ、社長も何も言われないでしょう」
彼女なりに気遣っているのだろうか。にこりとも笑わないその表情は相変わらずで言葉は単調に紡がれるばかりだが、その内容はいつもの彼女にしては銀鈴寄りの提案で随分甘い。
何だか妙に擽ったいような気分になりながら、銀鈴は照れ隠しに白凪から目を逸らしてそのまま目線を足元に落とした。誤魔化すように爪先で床を擦るようにしながらポツリと呟く。先程よりも気持ちが穏やかになっていたせいか、言葉は棘の抜けた音になった。
「……姉上は、さ。どうなっちゃうのかな」
「…」
「ホントにあんなので飛べるの?またいなくなっちゃうんじゃない?」
「…私には、何とも」
静かに、けれどどこか控えめに返ってきた返事に、俯いたままの瞳が微かに揺らぐ。再度ゆっくりと視線を上げた銀鈴は、今度は真剣な眼差しでどこか縋るように白凪を見上げた。金の色彩が戸惑いがちに揺れている。
「だって、さ。兄上は分かってるの?あの翼は…姉上の生命力を削って機能してるようなものなんだよ?」
「…社長はあの翼についての特性等全て理解していらっしゃいます」
「そうじゃなくて!…違うんだ、そういう『分かってる』じゃ、なく、て」
切れ切れの言葉の端から言い切れない感情の欠片が零れ落ちる。緩くかぶりを振って言葉を飲み込んだ銀鈴は、一度エレベータのランプを見上げて停止階を確認した。ようやく下の階から動き出したようだ。もうすぐこの階に上がってくるだろう。
流すように目線を落とした後に、緩く瞳を伏せる。消す事の出来ない記憶を瞼の裏に浮かべて、塞ぎ込むように眉根を寄せた。
「兄上、は」
ザワリ、鳥肌が立つような感覚に知らず手の平を握り締める。小さな拳を作った手はそのままに、銀鈴はゆっくりと瞳を開いた。足元に黒く色付く影が視界に入る。
「兄上は…『あの日』からずっと囚われてるんだ…。…そうだよね…?」
「社長がどうであっても、私はあの方に従うのみです。お分かりでしょう?銀鈴様」
自分の影と爪先を見つめるようにしながら投げた問いには機械的な返事が返るばかり。肯定も否定も貰えないままに諭すように宥められて、銀鈴はもう何度目になるか、顔を上げた。その目は幼い迷い子のように頼りなく、窺うように銀の瞳を見上げる。
「じゃあ、僕は。僕はどうしたらいいの…?」
「……私もそこまでは社長から伺っておりません」
若干の沈黙があったにせよ、それは迷いなくキッパリと。縋るように伸ばした手を容赦なく振り払われたような気になって、銀鈴は息ごと声を飲み込んだ。
即座に、理解する。
彼女は最初から、銀鈴に対して気遣ってなどいなかったのだ。気遣っている『ように見せた』のも、庇う『ように見せた』のも、全ては絶対者からの命令あってこそ。
恐らく、銀恢から『銀鈴を任された』のだろう。
だから、気にかける。気にかけたのが『フリ』でないにしても、命令がなければ彼女はきっと銀鈴に見向きもしない筈だ。
先程、一瞬でも気遣って貰っていると喜んだ己の愚かさを思い知らされる。見開いた瞳を苦々しく歪め、感情の欠片を咽の奥に無理矢理流し込んで銀鈴は口を閉ざした。
避けていた沈黙が流れ始めた空間に、エレベータが到着した音が変に澄んだ音で割って入った。