今度の通路は前のように一本道ではなく進むにつれて幾つにも枝分かれしており、けれど常に何かに追われている晴にとっては分岐点に立ち止まってゆっくり道を選ぶ時間などある筈もなかった。感覚で見分けて感覚で突き進む。随分長い距離を全力疾走している為にそろそろ休憩地点が欲しいところなのだが、見えない敵はそんな気遣いをしてくれる程優しい相手ではないらしい。休む事なく何かしらの攻撃を仕掛けてくるフロアはどれだけ感覚に頼って進んでも行き止まりもなければ出口もなく、まるで終わりのない迷宮に迷い込んだかのようだった。
足の速さには割と自信があるが、ハッキリ言って体力には自信がない。既に切れかけた息をゼエゼエと吐き出しながら、晴は走りながら片手の甲で額から流れ落ちる汗をグイと若干乱暴に拭った。呼吸が乱れても多少スピードが落ちても、ここで止まる訳にはいかない。壁から生えてくる槍は一定距離走り切るといつの間にか追いかけて来なくなったのだが、今度は床がエスカレータのように進行方向とは逆方向に流れて行く妙な仕掛けに捕まってしまっていたのだ。そのまま流されてしまうと先程の槍地獄に逆戻りしてしまう訳で、それだと何とかあのトラップから逃げ切った意味がなくなってしまう。けれどこの流れに逆らうには、少なくとも床が動いて行く速度よりも速いスピードで走らないと前に進めない。体力が落ちている今、このトラップは殆ど拷問に近かった。
「こ、ん、にゃっろ〜〜!」
ギリと奥歯を噛み締めて、ジリジリと地道に前へ前へと進んで行く。僅かながらでも前進し続けた甲斐あってか、暗い視界の中にようやく曲がり角が見えてきた。角を曲がったところで床が動いていないという保証はないが(勿論、床が動いているという保証もない訳だが)掴むものがあれば多少は体力的にマシになる。徐々に近付いてきた曲がり角目掛けて、晴は勢い良く床を蹴ると縋り付くように壁に飛びついた。勢い余って転がるようにしながら角を曲がると、慌てて跳ね起きてパタパタと床を踏み締める。そこで床が動いていない事を確認すると、晴は大きく安堵の息を吐き出した。どうやら床が動くトラップはここには設置されていないらしい。へたりと片膝をついて肩で大きく息をつきながら、苦し紛れの強がりを零してみせる。
「へっ、ナメんな…!俺にかかればこんなん余裕だっつーの…!」
つい先程、挑発的な言葉に反応するかのようにトラップが発動したというのに全く懲りていない。彼の学習能力がない事については、いつも仲間達から呆れられているし度々注意も受けている。しかしそもそも本人に自覚がないのだから、そこはもはや改善しようがないものなのだ。
そして今回もそれは裏目に出たようだった(純粋に悪態をつくタイミングが悪いだけで、実際彼の言動がトラップと関係しているとは言えないのかもしれないが)。角を曲がったばかりの地点に立ち止まり片膝をついたまま身を低くして体力の回復を待っていると、ふいに視界に淡い蒼の光が一瞬映り込む。
「…?」
立っていた時よりも近付いた場所――足元の方が一瞬光った、ような気がしたのだが、それが本当に一瞬の事で思わず目を瞬かせる。暗い視界が一瞬青白く染まったのだから気のせいではないと思うのだが、それが何を意味するのか見当もつかない。…尤も、予め予想出来た事態などこのフロアに入ってから一度も起きていないが。
不審気に首を傾げていると、もう一度、今度は先程よりも強めの光が足元から発される。晴がしゃがみ込んでいる場所を中心に、丁度縦横一メートル程の正方形の蒼い光が床から放たれていた。境界線を囲うように正方形のラインから垂直に伸びる光の筋は立ち上がった晴の膝くらいまでの高さで、けれど光っているだけで他に何がある訳でもない。靴底で何度か床を擦るように踏むが、足元が明るい事以外特に変わったようなところはないようだった。よく分からないながらに怪しいものは怪しい訳で、とりあえずこの場所を離れた方がいいのかもしれない。そう判断した晴は首を傾げながらも光のエリアを出ようとした――が。
「は――?」
それは丁度、晴の右足が光っていない床についたのとほぼ同時。
ガクン、と左足が落ちる感覚に焦って反射的に右足に体重をかけて身体を前に倒す。バランスを崩しかけながらも咄嗟の重心移動で完全にバランスを崩す事を回避した身体は、そのままストンと前のめりに倒れかけて右膝をつく事で転倒を逃れた。光る床の上に残っていた左足だけ突如足場がなくなるような、不思議な感覚。重心を移動させる事で左足を引き上げたような気になって(反射的な行動だったので、自分がどういう状況だったのかは頭で理解出来ていなかった)確認の為に肩越しにくるりと振り返り、そこで彼は目を瞠った。
今の今迄光っていたその場所は、漆黒の空洞に変わっていた。縦横一メートル程の正方形の形に切り取られたかのように、そこだけ他より色の濃い漆黒。
つまり、そこだけ、綺麗に床が抜けていたのだ。
蒼い光の点滅は床が抜ける前触れ――そう理解する間にも、片膝をついた真下の床が蒼く光り始めた。しかも点滅が先程よりも随分早い。最初は淡く、その次は少し強めに――
「ちょっ…冗談じゃねぇ!」
跳ねるように起き上がってその場から飛び退くと同時に、フッと音もなく光っていた床が消失する。どうやらこのフロアはまだ晴をゆっくり休ませてくれないようだ。
「何だよ、もーーっ!」
完全には休めていない身体を引き摺るように動かして駆け出すと、前方の床が揃って蒼く点滅しているのが視界に飛び込んでくる。どうやら自分が踏んでいる(もしくは自分の周辺の)床だけが抜ける対象という訳ではないらしい。ただし床が抜ける範囲は決まっているらしく、よく見ればどれも縦横一メートル程の正方形の形に光っている。次々に生まれていく正方形の穴を回避しながら跳ねるように進んでいると、暗闇の向こう側にぼんやりと上りの階段らしきものが見えてきた。次のフロアかと思うと、思考が単純ゆえに気持ちも大分軽くなる。胸中でガッツポーズした晴は、目の前に生まれた穴を軽やかに飛び越えるとこのフロアのゴール目指してスピードを上げて一気に駆け抜けようとした。けれど、長そうな階段まであと二十メートル程かというところで――何と、残っていた床全てが同時に点滅を始めたのだ。
「マ、ジかよーー!」
残り僅かな足場でも全て消えてしまうと落ちるしかない。サッと血の気が引いていくのを感じながら顔を引き攣らせて、自分が今出せる最高速度で床を蹴るが床が点滅する速度には追い付かない。結果、残りあと数メートルというところで足場が完全に消えた。急に抜けた足場にバランスを崩し、頼りない浮遊感を感じたのは一瞬の事で
「うわぁぁぁーーー!!?」
派手な悲鳴を響かせながら、漆黒の闇の中に少年が一人落下していった。
***
幾つもの監視カメラが映し出すリアルタイムの映像をモニタ越しに眺めながら、銀鈴は蒼い光を放つ右手をスッと水平に振り切った。それと同時に、モニタの向こう側で完全に床が抜けたフロアに何事もなかったかのように石造りの床が甦る。
「…バッカじゃないの。僕から逃げられる訳ないんだよ」
嘆息混じりに見つめる先は、たった今 一人の空賊の少年が落ちていった場所。今は当然床で塞がれているが、彼が落ちたあの場所は牢獄エリアまで吹き抜け状態で繋がっている筈だった。つまり彼は相当な高さを落下する事になるが、それによる彼の生死などは銀鈴にとって大した問題ではない。『脱獄したから』悪いのだ。全てはこの一言で処理される。
やれやれと首を捻ってから、銀鈴は手の甲で輝く宝玉の表面をスルリと撫でて現実世界との接続を解除した。蒼く光っていた右手からゆっくりと光が失われていく。
「これだから空賊は嫌いなんだよ。馬鹿で無鉄砲なヤツばっかり」
独り言を呟きながら軽く肩を回して、大きな伸びを一つ。この仕事は集中力が必要な為、神経をすり減らし身体にも負担がかかる。けれど誰にでも出来る仕事ではない上に(実際、銀鈴以外にこの仕事を受け持った者はいない)兄からこの場を完全に任されているという事が嬉しくて、銀鈴はこの仕事が嫌いではなかった。それに、脱獄者をモニタ越しに追い詰めるのも嫌いではない。寧ろ、残酷な事に楽しみの一つでもある。
「…ま、しぶとく走り回ってくれた方が楽しめるんだけどね」
パソコンと右手を繋ぐコードを引き抜いて、ふいに思い出したかのようにパソコンに内蔵されているデジタル時計で時刻を確認する。思ったよりもまだ早い時間帯で、少年は少し何かを考えるように目線を僅かに上へ投げた。
(…どうせあの高さから落ちて生きてる筈もないんだし…)
普段なら彼はトラップで追い詰めた脱獄者の生死を確認するまでこの場を離れない。死んでしまった場合は遺体の処理を、生きていた場合は再び投獄を、そのどちらかの指示を待機している傭兵達に白凪を通じて言い渡すまでが彼の仕事だった。
けれど今は、仕事よりも気にかかっている事がある。元々彼は今の時間、仕事ではなく上層部で過ごす予定だったのだ。それを急遽、仕事だからと連れ戻されてこの部屋に閉じ篭る羽目になってしまっただけで。普段なら楽しみながらこなす仕事も、今は面倒臭い以外の何でもなかった。
(…いいよね?確認は後からでも)
どんなに頭が良くて重要な仕事をこなしていても、結局はまだ14歳の少年。普段仕事絡みでは滅多に見せない詰めの甘さも、はやる気持ちの前では簡単に姿を現す。自問した答えは勿論肯定で、躊躇いがちに踏み出した足はパソコンの前に戻る事なく、足元の影も彼と共に仕事場から引き離された。カードキーを手に自動ドアを開くと、外の世界の明るさに一瞬眩暈に似た感覚が襲うが眩しげに目を細めるだけに留める。監視カメラが静かに映し出す地下の映像はそのまま置き去りに、銀鈴は足早に仕事場を後にした。