話相手がいなくなった牢獄で瑠藍は独り、
俯きがちに目線を落としたまま黙って冷たい床の上に座り込んでいた。
あの後。
派手に鉄格子を爆弾で吹き飛ばした紺那は、思考が状況に追い付かずに唖然としている瑠藍の前までやって来ると、涼しい顔で「一緒に来る?」ともう一度尋ねた。切れかけの照明の光を背にこちらを見下ろす紺那の瞳は変わらず真っ直ぐで、そこに彼女の本気の意志を感じさせる。けれど瑠藍は何と言葉を返していいのか分からず、結果「脱出なんて出来る訳ないだろ」と数刻前と同じような台詞を吐いてしまったのだ。そんな彼に紺那は特に怒る訳でも呆れる訳でもなく、ただ静かに「あっそ」と短く呟くと躊躇いなく瑠藍に背を向けて、独りきりで暗い通路の先へ駆け出して行った。
『悪いけど、走り出したら止まれないんだよね』
最後にポツリと、半壊した牢獄に彼女らしい言葉を残して。
閃光に飲み込まれたのはあの一瞬だけで、今はすっかり元の暗さが辺りを包んでいる。あれだけ派手に爆破したのだ、音や振動に気付いてすぐにでも看守が駆け付けてくるだろう。先程まで紺那がいた向かい側の牢は半壊、こちらの牢も端の方が壊れて鉄格子が四分の一程吹き飛んでいるのだから、牢屋内に残ったままの自分も駆けつけた看守から何かしらの尋問や罰をくらうかもしれない。けれどそれでも、この状況で先の見えない道を駆け出すのは無謀過ぎると思った。
紺那がいなくなってから数分経った頃、ふいに床を踏む足音が聞こえてきて瑠藍は伏せていた顔をゆっくりと上げた。けれど闇の奥から聞こえたその音は看守にしては随分軽快で、しかもあれだけの大きな爆発音に対して明らかに数が少ない。不審気に眉を顰めていると、紺那が駆けて行った通路とは逆側から小さな影が二つ姿を見せた。半壊した牢の前にピタリと止まったのは看守ではなく黒っぽい服装で身を固めた二人の少年少女で、瑠藍が訝しげに顔を顰めている前で少年の方が尻上がりの口笛を吹く。勿論、それは瑠藍に向けてではなく、彼の目線は足元の鉄格子の破片に注がれていた。
「うぁ、スッゲ。こりゃあ派手にやったなぁ」
「…爆弾、ですね。ここにセットした跡が」
牢の入口付近にしゃがみ込んだ少女が抉れた床を慎重に指でなぞる。へぇ、と感心したような声を出した少年は、瑠藍の視線に気付いたのか(もしくは最初から気付いてはいたが今ようやく接する気になったのか)彼の方へ向き直った。大きめの丸い瞳は明るい褐色で、くるりと瞳が動く様が快活な少年らしい。
「ニイちゃん、お向かいさんは何処行った?ニイちゃんトコの鉄格子も巻き添えで壊れてんな」
「…何なんだ、アンタ達。脱獄者か?すぐに看守が来るんじゃないか?」
「それは心配ないと思います」
棘のある瑠藍の物言いにも気を悪くする事はなかったらしく、綺麗な高音が響いてしゃがみ込んでいた少女が立ち上がる。膝上丈の黒いスカートからスラリと伸びる白い足はしなやかで細く、けれど所々薄汚れて小さな傷が幾つかついていた。長い黒緑の髪を一つに結い上げた少女は凛とした眼差しをしていたが、どこかあどけない顔立ちで紺那よりも少し年下に見える。少し大きめの靴は男物か、彼女が身に着けている服装には妙に不釣合いで、けれどそれは隣に立つ少年の足元も同じようなものだった。
「ここはワンフロア移動するだけでも時間がかかるから。もうしばらくは看守も来れないと思います」
「?だからワンフロアごとに看守が待機しているんだろう?」
「あぁ、だから」
つまり、と言葉を引き継いだのは少女ではなく少年の方。少女よりも辛うじてほんの少し身長は高いが、瑠藍より…寧ろ紺那よりも背が低い。顔も声も妙に幼くて体格は細身。外見だけで判断するのなら14,5歳くらいなのだが、言動が妙に落ち着いているせいで妙な違和感があった。年齢不詳とは彼のような者の事を言うのかもしれない。軽く肩を竦めてみせる仕種に鮮やかな海色の髪が揺れる。
「このフロアの看守はしばらく来れないって言ってんだ。全員まとめて、さっきちょっと眠って貰ったからな」
「眠って…?」
言っている意味が理解出来ずに――否、言っている事は何となく分かるがそれを信用する事が出来ずに眉を顰める瑠藍にヒラリと片手を振ってみせる。気安い仕種の中に感じるのは純粋な余裕で、それが何によって生まれるものなのかまでは瑠藍には分からなかった。実力か、経験か。けれど悪いがそのどちらもこの外見では現段階で信用が薄い。そのくせに彼らは見た目に不釣合いな事を当然のように口にする。
「まぁ、来たところで看守レベルなら負ける気しねぇ」
「ですね。戦闘訓練もまともに受けてないみたいでしたし」
まるで自分達がそれなりの実力者であるかのような。
いや、間違いなくそう言っているのだろうが、どうにも理解し難い。明らかに子供に見えるこの二人は先程から言動だけは妙に落ち着いていて、しかも彼らの話が本当ならどうも看守を『眠らせて』来たらしい。その必要があったのだから 彼らもつまりは脱獄者という事になるのだろうが、存在自体が妙過ぎて現実味がない。
胡散臭そうに眉を顰めたまま無言で二人を見上げている瑠藍に、少し苦笑を零して一歩進み出たのは少年だった。小さな影が近付いて、彼の腰に装着されたガンホルダーの中で二丁の小型銃が音をたてる。どうやら銃がホルダーに合っていないらしい。
「ニイちゃん、そろそろさっき俺の言った事に答えてくれてもいいんじゃねぇか?お向かいさんは何処行った?」
「…さぁ。彼女が何処に行ったかなんて知らないな」
脱獄するとは言っていたが、本当にこの地下牢獄から逃れられるとは思っていなかった。真っ直ぐな気持ちだけでは高い壁に届かない。だから、彼女が何処へ行ったか、そして何処へ行き着くのかなんて知る筈もなかった。自分で空賊と言っていたのだから、捕まって公開処刑されてもおかしくはない。
「…脱獄されたのは女性ですか」
意外そうに瞳を瞬いたのは少女の方。隣の少年といい、目を丸くすると一層幼さが際立つ。眉を顰めたままの瑠藍と少女の間に割って入るように少年が更に一歩進み出た。もう殆ど瑠藍の目の前まで来ている。
「ニイちゃんは…その、ネエちゃんか?その娘と行かなかったのか?」
何で、と言いかけた少年はそこで改めて瑠藍の服装をまじまじと眺めた。あぁ、と何かに気付いたように納得する声が小さく漏れる。
「…コランダムの研究員か。ナルホド、無駄に賢かったってワケか」
投獄されてから薄汚れてしまった瑠藍の白衣を流し見て落ちた一言に、無性に腹が立った。
どいつもこいつも。
知りもしないくせに、人の事を好き勝手言ってくれる。
そもそも『無駄に』って何だよ?
賢い事が悪いみたいじゃないか。
僕は、ただ――
「…アンタ達には関係ないだろう。もう行ってくれ」
「…確かに」
戸惑いがちな少女とは逆に、少年は静かに瞳を細めただけ。何か言いたそうに目を向けてくる少女とは敢えて目線を合わせずにそのまま緩く瞳を伏せて、溜息混じりに言葉を続ける。
「俺達にゃ関係ねぇ事だ。…ただよ、ニイちゃん」
そこでゆっくりと開かれた瞳は妙に大人びていて、とても10代の少年には見えなかった。思わずその目を言葉なく見返してしまった瑠藍へ、もう何度目になるか、純粋な問いを投げかける。
「だったらアンタ、そもそも何でここにいるんだ?」
何故。
何故ってそんなの僕が聞きたい。
僕がここにいるのは賢くなかったから。
逆らって一歩も引かなかったから。
譲れなかった、から。
小さく見開かれた瞳の奥で翡翠の色が戸惑いに揺らぐ。気付いた事があまりにもそのまま過ぎて、けれど今迄それすら気付かなかった事に瑠藍は自分で驚いていた。その様を黙って見下ろした後、少年はふいに瑠藍から視線を外すと隣の少女の肩を軽く叩いて彼らが来る前に紺那が駆けて行った通路の先を顎で示した。一瞬戸惑いがちに少年を見上げた少女は、自分に言い聞かせるように緩くかぶりを振った後に彼に従って足を踏み出す。二つの小さな影が瑠藍の前から消える直前、搾り出された声は大きなものではなかったけれど彼らの足を止めさせる程度の効果は持っていたようだった。
「――待ってくれ」
「…行けっつったり待てっつったり。随分勝手な言い分だなぁ」
言葉の割に声は笑い混じり。きっと瑠藍が制止の声を投げるのも予想の範囲内だったのだろう。少し驚いたように足を止めた少女と違って少年は確信犯的に笑うとくるりと振り返る。そのまま彼は、片眉を上げて瑠藍の言葉を促した。紡がれたのはたどたどしくもようやく気付いた、正直な気持ち。
「僕は…僕は、まだ…諦めたくない」
叩き落されても。
捻じ伏せられても。
紺那ほど自信に満ちた強い意志は持っていないけれど
それでも小さな意地がある。
「納得出来ない事が…あったんだ」
ゆっくりと立ち上がると薄汚れた白衣が足元に影を作り出す。座り込んだままだった世界が足の長さの分だけ高くなった。その分だけ、目的の場所に近付いたのだ。今はまだ遠く離れていても、これが最初の重要な第一歩となる。
脱出なんて不可能だと言い切ってしまったが、座り込んだままでは元から不可能に違いないのだ。目的が見付かった今、少しくらい足掻いてみてもいいかもしれない。思っていた以上に自分は賢くないみたいなのだし。
黙って目線を投げてくる二人に真っ直ぐ視線を合わせる。
具体的な事はまだ分からないけれど、明確な答えが一つ生まれた。
「ただ…僕はただ、…彼女を助けたい」
同情だとか哀れみだとか。
そういう感情があるのかないのかは正直よく分からない。
ただ言い切れるのは
助けたい、この素直な気持ちだけ。
ここに入れられた理由がそれならば
ここから出る理由だってそれでいいのかもしれない。
迷いのない言葉を耳にして、ゆっくりと少年の口の端が持ち上がる。瑠藍の言う『彼女』が誰の事なのかは少年達には分からない筈だが、彼らにとってそんな事はどうだっていいのだ。大切なのは瑠藍自身の気持ちが固まったという事。大人びた顔で笑った後、少年は改めて瑠藍に向き直った。進みかけていた足を数歩戻すと、再び牢の前まで近付いて壊れていない部分の鉄格子を手の甲で軽く叩く。
「決まりだな。出て来いよ、そこにいちゃあ目的は達成出来ねぇ」
「…悪いが僕は戦力にはならない。お荷物がいいところだ」
先に察して自ら戦力外だという事を自己申告した瑠藍にも動じる事はなく、かぶりを振る。
「だったら尚更一人じゃこっから上は攻略出来ねぇだろ。心配しなくても単なる親切心じゃねぇよ。ギブアンドテイクだ」
「?」
不審気に首を捻る間に少女も牢の前まで戻ってきたようだった。少年の言葉に続けて、彼の言わんとする事を付け足す。
「同時期脱獄者は多い方が私達は助かるんです。監視の目が分散されるから」
「向こうは知らなくても俺達的にそこのお向かいさんに助けられてっからな。借り一つって事で、せめてニイちゃんをお向かいさんトコまで送ってやるよ。お向かいさんに言いたい事、あるんだろ?」
多くのエリア内でバラバラに分散した脱獄者達が一度に動き回れば、監視の目は一箇所を追う事が出来なくなる。既にこの場にいない紺那、それから目の前の彼ら、少なくとも脱獄に気付いた監視の目はこの二つのどちらを追うか決めなければならない。同時に両方を叩くとしても、一箇所に固まっているより相手の戦力は分散される筈。
それはつまり、お互いがお互いを囮に使い――
「…利用するのか」
「お互い様だろ」
どうする?と聞き返す少年に浅く嘆息を零す。利用するという言い方は悪いが、確かに脱獄者という圧倒的不利な状況にある今、それが一番有効的な気もした。
「…言っておくが、僕は本当に戦闘能力はないからな。そんな訓練受けていない」
「研究員にゃ期待してねぇよ。そもそも俺達はそういう相手と行動する事には慣れてんだ」
「…?」
「おっと、こっちの話」
ヒラリと片手を振って少年は腰元のガンホルダーから引き抜いた銃を一つ瑠藍に差し出した。眉を顰めながらもそれを受け取った瑠藍に簡単に扱い方を教えながら銀色に輝く銃身をトンと叩く。
「期待はしてねぇが、丸腰じゃ自分が不安だろ。一応持っとけ。…あぁ、そうだ」
そこでようやく思い出したように瑠藍を見上げる。今更ではあるが、目の前に立つと少年の方が瑠藍よりもずっと身長が低い事が改めて明確に分かった。
「ニイちゃん、名前何てんだ?歳は?」
「…瑠藍だ。歳は、19」
「へぇ、19でコランダムの研究員たぁ大したモンだ。ま、よろしくな瑠藍。俺は青威(アオイ)。こっちが桜夜(サクヤ)」
「桜夜です。宜しくお願いします」
ぺこりと丁寧に頭を下げた桜夜に軽く会釈しながらも、結局この二人は何者なのかと考える。聞いたところで答えてくれそうな感はなかったので、敢えて口には出さなかったが。
気安い口調の青威と敬語の桜夜。兄妹や恋人のように近い間柄ではなさそうだが、たまたま共に行動している知らない者同士の脱獄者にしては妙に親しい。考えられるのは上司と部下だが、それにしては距離の近過ぎる同年代のようにも見えた。二人の小さな背に記されたコランダムのマークから彼らもこの機関の関係者である事は推測出来るが、こんなにも幼い少年少女を瑠藍は鋼の塔で見た事はなかった。そもそも瑠藍自身が珍しい存在だったのだ。自分よりも年下に見える相手など、この塔では社長の弟である銀鈴とバード・プロジェクトの研究室にいたあの少女くらいしか見た事がない。
黙って思考を巡らせていると、それに気付いているのかいないのか青威がパシンと小さな拳を自身の左手に叩き込んだ。その音で思考を切り替えさせるように、明るい音で言葉を紡ぎながら足を踏み出す。
「うし、ちゃっちゃっと地上(うえ)に帰んぜ。遅れんなよー」
「はい、分かってます」
「…偉そうだよな。簡単に言うし」
クスクスと笑いながら後に続く桜夜の後ろでボソリと呟くと、それが聞こえたのか(聞こえたところで構わないと思って言った言葉だが)肩越しに青威が振り返った。けれどその顔は不機嫌そうでも怒っている訳でもなく寧ろどこか楽しそうで、彼は瑠藍を見上げてニヤリと笑う。
「そうそう、言い忘れてたけど」
「…何だ?」
「俺と桜夜、瑠藍より年上だから」
「は!?」
思わず目を見開くと、悪戯が成功した子供のようにニヒヒと笑う顔。
「嘘じゃねーぞ。俺26だし」
「!?」
「あ、私は22です」
「!!?」
「瑠藍は年下のクセに偉そうだよなー。年上はもっと敬うよーに」
クックッと咽の奥で笑いながら今度こそ振り返らずに歩き出した青威と、騙したみたいでゴメンナサイと苦笑気味に笑って青威の後に続く桜夜の小さな背中を暫し呆然と見送って。
「……詐欺だろソレ…」
漏れた声が掠れていた事すら自分で分からないくらい、瑠藍は表情を引き攣らせる羽目になった。