時はほんの少しだけ前に遡る。
晴が赤雷からコランダムについての一般常識授業を受けていた頃。
そのフロアとは別の、けれどそう遠くもないフロアで
彼女もまた、ゆっくりと暗闇の中から目を覚ました。
ひやりと冷えた床の感触にぼんやりとした思考をゆっくりと働かせる。丁度片頬を床に押し付けるようにしてうつ伏せに転がっていた紺那は、重さが残っている瞼を持ち上げると、そのままの体勢で緩く開かれた己の手の平を数度開いたり閉じたりして身体の自由を確かめた。晴のように反射的に飛び起きる事はなく慎重に上体を持ち上げると、頭の奥に一瞬鈍い痛みを感じて僅かに顔を顰める。こめかみの辺りに片手を添えて緩くかぶりを振ると、若干身体は重かったが動かないという事はなかった。
どうやら身体に回った薬は殆ど消えているらしい。軽い頭痛はその内治りそうな程度の痛みで、その他に問題になりそうな程の副作用はないようだった。
身体の無事を確認して、それから薄れていた記憶を手繰り寄せる。途中から途切れた意識の中で、不戦敗に近いあの敗北感だけが悔しさとしてそこに残っていた。まともに戦ってどうにかなった相手とも思えないが、戦わずして負けてしまった事の方が悔しくて仕方がない。
別れ際、笑えていないのに無理矢理笑った金の瞳。
もっと綺麗な色の筈なのに
もっと自然に笑っていい筈なのに
あの色を歪ませてしまった事も、胸の奥に引っ掛かったまま。
床について身体を支えている片手で無意識にグッと拳を作る。そのままゆっくりと顔を上げると、紺那は闇に慣れてきた目で辺りを見渡した。今は何より情報収集が先。
(ここ…何処だろ…)
暗くて重い空気が支配する狭い空間。冷たい石造りの床の表面を指先でなぞると、ところどころに亀裂が入っているのが分かる。耳が痛くなるような静けさは気味悪く、時々その静寂を破るかのように天井から水の粒が零れて床に小さな水溜りを作っていた。
記憶は途中で途切れたままだったが、この場所は本当に記憶にない。見覚えのない暗い空間で、注意深く辺りを観察すると隔離するように作られた鉄の枠組みが視界に入ってきた。それが鉄格子だという認識をしても、紺那は僅かに眉を顰めただけ。多少なりとも動揺はしたが晴のように大袈裟に驚く事はなく、慎重に扉の方へ歩み寄る。格子を握って軽く引っ張るが、当然それが動くような事はなかった。
さて、どうしたものか。
割と楽観的にそんな事を思いながら、顎の先に手を当てる。自分が何故ここにいるのか、ここが何処なのかは分からないが、とりあえず捕えられているという事は確かなようだった。
彼女は晴と違って頭は悪くない。決して瞬時にではないけれど自分なりのスピードで状況を推測していると、ふいに向かい側の牢から声が投げられた。
「…気がついたか」
高くなく低くもない、どこかまだ少年らしさを残した声音。突然声をかけられたにも関わらず紺那は大して驚く事もなく、ゆっくりと瞳をそちらの方へ向けた。薄暗い通路を挟んで向かい側の牢の中、鉄格子の傍に寄りかかるように片膝を立てて座っている人影が一つ。牢屋内に照明は存在しなかったが通路の天井で点滅する照明の光が辛うじて届く範囲内だった為に、その輪郭がぼんやりと薄闇に浮かぶ。声は投げ掛けたくせに身体は紺那の方へ向ける事なく横向きに座って足元を見つめたままの少年は、外見的には紺那と同じような年頃に見えた。
先程から気配は感じていた。ただ、向こうが動きを見せる気配がなかったから此方からも声をかけなかっただけ。それでももう少し経ったら何かしら聞いてみようかとは思っていたので、向こうから声をかけてくれたこの状況は紺那にとって悪いものではない。
「ウン。目覚めは割とサイアクだけど」
数秒、黙って少年を観察した後に返事を投げ返して肩を竦めてみせると、相手は不審気に眉を顰めたようだった。伏せていた顔を上げると、闇に映える金の前髪がサラリと揺れる。薄汚れた白い上着はよく見れば白衣か、眼鏡の奥の緑色の瞳はどこか知的そうな雰囲気を持っていた。横向きの体勢はそのままに、首だけを捻って彼は低い位置から紺那を仰いだ。
「…君は今の状況を分かっているのか?」
「知らないよ、そんなの。牢に入れられてるってのだけは分かるけど」
「一応そこを分かっていて、何故そんなに危機感がないのか理解に苦しむな」
「騒いだって仕方ないでしょ。今はまず情報が欲しいの」
両手を腰に当てて浅く嘆息を零してみせると、それを見上げている少年の瞳が更に細くなった。呆れているのか見下しているのか、どちらにせよ良い印象を持たれている訳ではないのは確かなようだ。けれど、そんな事は紺那にとって大した問題ではなかった。返す言葉もなく黙ってこちらを見上げてくる瞳を見返しながら、目線を合わせるようにその場にひょいとしゃがみ込む。
「ねぇ、アンタはここの関係者?今のあたしの状況、説明出来る?」
「…馴れ馴れしいな、君は」
眼鏡の奥の瞳がうんざりと細められた後、少年は深々と嘆息を零した。神経質そうな瞳で、目の前の無遠慮な少女をジロリと軽く睨む。
「とりあえず『アンタ』はやめて貰いたい。君は…」
「レディに先に名乗らせる気?そっちが名乗るまであたしも名乗るつもりないけど」
理屈と常識に凝り固まっているような偏屈な相手でも紺那は大人しく退くような娘ではなかった。ムッと眉を顰める様を見返して相手を試すように片眉を上げてみせると、どうやら向こうの方が退いてくれたらしい。やれやれとかぶりを振って、少年は嘆息と共に自分の名前を吐き出した。
「…瑠藍だ」
「そ?紺那よ。よろしく、瑠藍」
「…あまり気は進まないが、まぁ…よろしく」
「可愛くないな〜…」
呆れたように嘆息すると軽く肩を竦められた。可愛くなくて結構、という意味だろうか。相変わらずこちらに向き直る事のない瑠藍を鉄格子越しに見据えたまま、話題を繋ぐ為にヒラリと片手を振る。
「情報が欲しいんだけど。瑠藍、何かイイ情報持ってない?」
「悪い情報なら持ってる」
短く答えて、瑠藍は足元に目線を落とし浅く嘆息した。苦いものを噛み潰すように、僅かに顔を顰めながら。
「ここはコランダム。鋼の塔下層部の地下牢獄だ。君は部外者のようだが、ここに関する知識は?」
「聞いた事くらいなら。脱出不可能とか言われてるんでしょ?」
「そこが分かっていれば上出来だ」
薄暗い照明に照らされる自嘲気味な笑みを眺めながら、紺那はイマイチ現実味のない状況に眉を顰めて首を捻った。
紺那は晴よりも一般知識は所有していた。否、晴があまりにも世間知らずだったという方が正しいか。コランダムといえば今はもう、遠くの都市に住む子供だって名前くらいは知っている時代なのだ。
空賊である自分が政府(コランダム)に狙われる理由ならいくらでもある。ただ、今回はどうもそっちの理由で捕えられた訳ではなさそうだった。
路地裏で叩きのめした傭兵は『彼女』を追っていた。
特殊鋼糸を操る女は『彼女』を連れ戻しに来たようだった。
それに巻き込まれる形で、自分はこうして捕えられたのだ。
つまり
自分は(恐らく晴も)『彼女』と関わった事で捕まった――?
自分達に起きた理不尽な事件をゆっくりと繋ぎ合わせていく。
一つの情報から幾つかの答えを出す事。
現状を理解する為には単なる推測でも良かった。
「…て事はあの娘、政府関係者だったのか」
推測だけで限りなく真実に近いであろうひとつの可能性を弾き出す。言葉の割に大して危機感なく首を捻ると、瑠藍の眉が僅かに顰められた。相変わらずこちらに向き直らない上に余計な言葉も挟む事はなかったので聞いていないのかと思っていたが、どうやら聞いてはいるらしい。
「『あの娘』?…もし良ければ君が何故此処にいるのか、教えてくれないか」
「いいけどぉ、別に」
しゃがみ込んでいた足が痛くなってきたので、結局その場に座り込む。気安く胡坐を掻くと瑠藍が一瞬顔を顰めたが気付かないフリをした。
「ただ、これはあたしの推測でしかないよ。誰も教えてくれないんだもん。理不尽だよね」
「…いつだって、被害者は理不尽な目に遭う」
「何ソレ。被害妄想?」
自分で話を振っておきながら、アッサリと切り捨てる紺那を瑠藍は一瞬恨めしそうに見やった。彼は元々職場に女性が少なかった事もあり、また歳の近い女性などいなかった為に女性と接する事に慣れていない。それにしてもここまでマイペースな生き物なのか、女性というものは。
「王都の路地裏でね、女の子に会ったんだ。金属の翼を持った、空色の髪の」
「――!」
瞬間、瑠藍は目を見開いて横を向いたままだった体勢を僅かに紺那の方へ傾けた。それでも完全に向き直った訳ではないが、紺那の話は確実に彼の興味を引いたらしい。顔色が変わったその様を敢えて静かに流し見て、言葉を続ける。
「綺麗な金の瞳でね、白い肌で小さくて細い子。傭兵に追われてて何だか訳アリだったみたい」
そこまで言ってから、改めて瞳を瞬かせる。晴同様、ここで気付いた事がひとつ。
「ありゃ、そういえば名前聞いてなかったな。あたしもちゃんと名乗ってないや」
「…彼女に関わったという事か?」
しまったな、などと呑気に独りごちる紺那に向けて静かに問われた言葉に、さほど躊躇う事なく頷く。
「そだね。傭兵叩きのめしちゃったし。…ただその後、妙な武器使うオバサンに負けちゃったんだけど」
オバサン、の部分だけ妙に口調が強くなったのは瑠藍の気のせいではないだろう。少し眉を吊り上げた紺那は自身を落ち着けるように浅く息を吐き出し、上がり気味の眉を定位置まで戻して軽く肩を竦めてみせた。
「不覚にも麻痺薬にやられちゃった。…で、気付いたらここにいたってワケ」
「…馬鹿だな。コランダムを敵に回したのか」
溜息混じりの言葉に紺那の眉が再び吊り上がる。彼女は簡単に挑発に乗るタイプではないが、売られた喧嘩は買う主義だった。鉄格子越しに瑠藍を軽く睨んで口を開く。勿論相手に本気の悪意があった訳でない事を分かっている為に本気で怒るような事はしないけれど、多少の嫌味くらいならば言っても悪くはないだろう。
「あっそ。馬鹿で悪かったわね。じゃあ聞かせて貰おうじゃない。馬鹿じゃない捕まり方ってヤツを」
嫌味を含ませた言葉を投げつけて、紫の瞳がジトリと半眼で少年を睨む。
「言っとくけど、過程はどうであれ瑠藍とあたしは今同じ立場なのよ。分かるでしょ?」
「…あぁ、分かるさ。嫌な程な」
紺那からの嫌味混じりの目線を受け流すようにゆっくりと目を伏せて、瑠藍は自嘲気味に薄く笑った。一拍後、伏せていた目線を上げてようやく紺那と目を合わせると、乾いた表情で口の端だけ吊り上げる。
「だから残念ながら馬鹿じゃない捕まり方は教える事が出来ない。僕にも分からなくてな」
「?何言って…」
訝しげに瞳を細めた紺那に瑠藍は緩くかぶりを振ってみせた。角度によって光が届かなくなったせいか、或いはそれ以外の理由によってか、翠の瞳が暗く濁る。
「そのままの意味だ。僕も馬鹿なんだよ。コランダムに属していながら敵に回した」