鋼の塔という場所を晴は知らない。
けれど、それなりの実力者である(と推測した)赤雷が『脱獄は難しい』と言い切るのなら。
その彼が現に腕を一本犠牲にしているのなら。
彼が言う事も間違いではないのかもしれない。
けれど
この場所を、晴は『知らない』のだ。
『知らない』場所を人から聞いた知識で括ってしまう事は、彼の信条に反した。
「…だから皆、牢からは出れるのに大人しくしてるんか?上に行けないから?」
実体験に基づく赤雷の忠告にも怯えるような様子はなく、晴は彼にしては幾分静かに言葉を紡いだ。怒っている訳ではないようだったが、空色の瞳は常より若干細められているようにも感じる。その目でゆっくりと視線を巡らせた先、それが通路の両側に続く幾つもの牢に向けられているのに気付いて赤雷は何気なくその目線から緩やかに視線を外した。
気配は相変わらず彼ら以外に感じない。しかし先程までの赤雷と同じように、気配だけを消して様子を見ている者が多数いる事に気付いたのだろう。切れかかった照明があるのは廊下だけで 暗い牢は一見無人に見える、けれど。
問いを投げかけたまま黙って暗い廊下を――正確に言えば廊下の両脇にある暗い牢を見つめている晴の気を戻すように、浅く息を吐き出して肩を竦めてみせる。コランダムに関する説明もこのくらい聡く気付いてくれたらいいのに、などと思いながら。
「ま、そーゆーこった。誰だって命は惜しいからな」
「何か…それ、ヘンじゃねぇ?」
ポツリと漏れた不機嫌そうな呟きに片眉を上げる。ゆっくりと視線を赤雷に戻した晴の瞳に徐々に怒りの色が混ざってきていた。
成程、先程までの奇妙な静けさは感情が昂る前触れという訳か。
もしくはその感情がどこに結びつくものなのか、彼なりに考えていた時間だったのか。
そんな事を悠長に思いながら黙って先を促す赤雷の目線には気付かなかったようだったが(尤も、制止したところで彼が黙るとも思えなかったが)晴は勢いのままに弾かれたように鉄格子を掴んだ。高く反響する金属音よりも、幼くも真っ直ぐな魂が紡ぐ言葉が暗い廊下に広く響き渡る。
「だって!何もしなきゃ何も変わんねぇっつーの!出たいのに動かないなら出れなくて当然だっつーの!」
全くもって正論だと。
この場所に入る前の赤雷ならそう言っただろう。
そしてこの絶望を知らない少年の言い分を褒めてやったかもしれない。
けれど、今の彼にその言葉はあまりに甘い理想論にしか過ぎなかった。
敢えて目を合わせる事なく、いかにも対応するのが面倒臭いと言わんばかりに首筋を掻く。ふぁ、とご丁寧に欠伸まで漏らして、赤雷は緩く瞳を細めると静かに反論を唱えた。
「それで死んだらどうすんだ?」
「変わんねぇよ!諦めてる時点で、死んでねぇけど生きてねぇじゃん!だったらそんな可能性考える時点で意味ねぇ!」
鉄格子を握り締めたまま、真っ直ぐ見据えてくる幼い瞳は濁りのない空色。それは灰雲の上に広がる青空をそのまま映し出したかのようで、この汚れてしまった世界では尊いもののようにも感じる。水平移動するようにゆっくりと投げられた赤雷からの目線を真正面で受け止めたまま、晴は自身に言い聞かせるように幾分低い声で続けた。
「俺は行くぜ。死ぬ気もねぇ。這いずってでも生きて帰る」
パシン、と左の手の平に右手で作った拳を叩き込んで 一人頷く。力強く、拳を手の平で包み込んで。
「俺はもっかい、あの蒼の下で笑うんだっつーの!こんなとこに押し込められてたまっか!!」
「蒼の?」
高らかに響いた宣言に片眉を上げて反応して、それから赤雷は晴の頭で輝くゴーグルのガラスに目を留めた。
あの『蒼』を知っている人間などコランダムの上層部連中か、政府直結の行商人や傭兵、そして実際に灰雲を突き抜けた事がある者――空賊と呼ばれる賞金首達くらい。政府関係者と空賊、同じ色を知っているとはいえ その立場の違いはほぼ対極に位置する。この少年が政府関係者とは思えない為(そもそも関係者がコランダムを知らなくてどうする)残る選択肢は一つだけ。
「何だ坊主、空賊か?」
「へぁ?そうだけど…」
隠す事もなくアッサリと間抜け面で頷いた晴の答えにナルホドと頷きながら、赤雷は若干わざとらしく右手で顎の先を撫でた。何故そんな質問をされたのか分からずに、パチパチと瞬く幼い瞳を横目にしながら軽く肩を竦めてみせる。
「それなら何もしなくてもここで死ぬ前に出れるんじゃねぇの。政府に捕まった空賊は基本的に公開処刑だ。コランダムは政府直結だからな」
「はぁ!?ふっざけんな!冗談じゃねぇ!」
しれっと言い放つと、思った通り簡単に眉が吊り上がる。何ともからかい易く(いや、言った事は事実だが)面白いこの少年の扱いを大分分かってきたところで、赤雷はわざと素っ気なさを作っていた表情を緩めて咽の奥で笑いながらズボンのポケットからよれよれの紙切れを取り出した。端の方が既に黄ばんでいるそれを鉄格子の隙間から晴に差し出す。
「俺は忠告した。それでもお前が行くってんなら、男として止めねぇさ。餞別に持ってけ」
「うぇ、何コレ…きったねー」
「馬鹿野郎。人様の餞別を汚ねぇモン触るみたいに摘むな」
人差し指と親指で紙の端を摘み上げて顔を顰める晴の頭を軽く叩く。力は入れていないつもりだったのだが、パン!と小気味良い音がして緑色の頭がグラリと揺れた。叩かれても尚、晴は相変わらず紙の端を摘んだまま、四つ折に畳まれたそれを広げてまじまじと眺めた後に再び顔を顰める。
「鼻かんだ痕があるっつーの」
「かんでねぇよ!何で今嘘吐いた!?」
細い首を片手でぎゅうっと締め上げると、潰れた声が漏れた。クソ、と小さく毒づいて首から手を離す。
「コランダム中層から上の地図だ。仮に地下を脱出出来たとして、正面玄関から地上に出られるとも限んねぇだろ。一般人なら地上にしか逃げ場はねぇが、お前が空賊なら上にも逃げ場はあるだろうし」
「何でおっちゃんこんなん持ってんの」
「職業柄。言っただろ、コランダムに雇われてたって。この塔で働いてる奴は大抵地図持ってるよ。迷い易いからな」
「じゃあおっちゃんにも必要じゃん。これ」
「俺はいいんだ。もう地図なんざ見なくても分かるから」
地図持ってた事すら忘れてたくらいだ、と笑いながら続けて、ヒラリと片手を振る。フーン、と言いながら物珍しそうに暫く地図を眺めていた晴は、ふいに顔を上げると若干困ったような顔で僅かに首を捻った。よく見ると彼の手元の地図は上下が逆さになっている。どうやらどちらが上なのかすら分からないらしい。
「よく考えたら俺地図読めねぇや。貰っても意味ねぇっつーの」
「…お前どこまでガキんちょか…。あー…まぁ、いいや」
もう何度目になるか、鉄格子の隙間から伸びてきた手に警戒して晴は思わず身構えた。けれど、その手は攻撃する為のものではなく、大きな手の平が若干乱暴に少年の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。きょとんと目を瞬かせて赤雷を見ると、男は最初に会った時のあの笑顔でにかっと笑った。
「じゃあお前が『蒼の下』に戻れたら、その地図そっから破り捨ててくれや」
「ウン?いいけど?」
「頼んだぜ。男と男の約束だ。鼻かんだりすんなよ」
「かまねぇよ!」
笑いながら立ち上がると、足の長さの分だけ赤雷との間に距離が生まれた。トンと爪先で床を叩いて地図をズボンのポケットに押し込める。先程まで見上げる形だった男を今度は見下ろした後、晴は牢の扉の方へ目線を投げた。
「俺、鍵開けてから行こうか?」
「言っただろ。出る事自体は簡単なんだよ。片手でも牢出るくらいは出来ら」
「そっか。おっちゃんずっとここにいんの?」
「オニーチャンって何度言えば分かるかね。…ま、機会があったらお前の真似してみっかな」
「ウン!それがいいって絶対!」
にかっと笑う妙に幼い笑顔に思わず吹き出す。結局この少年の器はイマイチ測りきれなかったけれど、それはつまり測れるようなものではないという事なのかもしれない。良くも悪くもこの幼さが多分、凝り固まった常識を打ち砕く問答無用の武器となるのだろう。
「そんじゃな!色々サンキュ!どっかでまた会おうぜ!」
今度こそ勢い良く床を蹴って走り出した小柄な背中を見送ろうと僅かに身を乗り出した赤雷は、次の瞬間目を見開いて鉄格子を掴む事となる。思い切り鉄格子を掴んだのは晴と出会って三度目だが、彼は二度目の時と大差ない程勢い良く鉄格子に張り付いた。
暗闇の向こうに遠ざかっていく小さな背中に確かに記された、鳥の印。
翼の曲線を描いたそれを、大きく見開いた目に焼き付けて。
「…アイツ…『疾風』だったのか…!」
唖然と漏れた声は少年に届く事なく、暗い廊下に掠れて反響した。