薄暗い通路は見通しが悪く、時折人の気配は感じるものの直接的に誰かと会う事はなかった。意外にも晴が上手く避けているのか、それとも単なる偶然かは分からなかったが、今ここで会うとしたらそれは恐らく看守や傭兵などの敵だと彼は言う。尤も彼と同じ脱獄者もいるようではあったが、不要な戦闘は極力回避したい。
警報は相変わらず鳴り響いていたが、フロア自体の細かい振動は暫く進む内に治まったようだった。『ようだった』というのは、蒼姫自身の視界が現在進行形で揺れているせいでフロア自体が揺れているのかどうかがよく分からなくなっていた為である。
強い力を使った事で体力が急激に落ちていた蒼姫の『頑張り』など結局のところたかが知れており、結果的に彼女は晴の背中で大人しくしている羽目になっていた。それでもワンフロアは(勿論、速さを合わせて貰ってはいたのだろうが)自力で走りきったのだから意地を見せたと言ってもいいだろう。
小柄な蒼姫から見ても小柄に見えた晴だったが(自分よりも目線位置が高いとはいえ、さほど差はないように思えた。晴が男性にしては細身なせいもあるのかもしれない)蒼姫を背負って軽やかに駆ける辺り、力的に極端に劣っているという事はないのかもしれない。スピードは一人で進んでいた時よりかは落ちているのだろうが蒼姫と共に駆けていた時よりかは速く、負けず嫌いな少女は少年の背中で小さく口を尖らせていた。そんなつもりではなかったのに、これでは完全にただの足手纏いである。
「…ごめん、晴。何なら置いてってくれてもいいから」
「は?何で?いーよ、蒼姫軽いし。紺那だったら俺より身長高いし多分無理だけど」
紺那が聞いたら確実に殴られるデリカシーのなさだ。振り返らずに返ってくる言葉に息切れは混ざっておらず、その事に気付いて益々悔しそうに口籠ると口の中で桃味の飴玉がコロリと転げた。つい先程「翼の力を使ったせいで疲労が酷い」と悔しげに呻いた蒼姫に晴がくれたものである。彼が言うには甘いものは疲労回復にいいらしい。何故かついでに自分も食べていたので、単に食べるタイミングが欲しかっただけなのかもしれないが。
「えーと…そんじゃあ蒼姫は自分の事がよく分かんなくてー…そんで、弟?が何か知ってるかもしんねーから探してんのか」
「うん、大体そんな感じ」
走りながら喋らせるのは負担になるだろうからこちらからは極力話し掛けないようにしていたのだが、晴から話題を振ってくるという事はそんなに負担でもないのかもしれない。それぞれの状況を簡単に情報交換したのはいいが、どうも晴はこういう事には大して興味がないらしく(話を聞く気はあるようなので単についていけないだけかもしれない)、失礼ながらこちらの話の半分も理解していないのではないかと蒼姫は思っていた。彼に理解して貰う必要性はさほど感じなかったので別段構わないのだが。
足を踏み出す度にぴょこぴょこと揺れる原色の緑の髪を後ろからぼんやりと眺めながら小さく頷くと、「フーン」と軽い相槌が返ってくる。
「何か憶えてる事とかねーの?なーんも分かんねーのか」
「えっと…蒼…。一面の蒼を…憶えてる…」
「あお?」
「…言い方頭悪そう」
「ば、馬鹿じゃねーもん!」
直球で馬鹿とは言っていないのだが、同じようなものか。呆れたように瞳を細めた蒼姫の言葉に棘を感じたのか、つい先程も聞いた覚えのある涙声が返ってくる。振り返らないので表情は分からないが、恐らく涙目なのだろう。
気付いた時には鋼の塔に幽閉されていた蒼姫が憶えている色はたった一つだった。
吸い込まれそうな程の一面の蒼。
それが空の色だという事は、一度塔から飛び降りた時に確信した。
あの時は一瞬過ぎて、気付いたら地上に落ちていた。
きっとまだ、何かが足りないのだ。
何かを見付けて再びあの蒼を見れば、きっと新しい何かが生まれる筈。
そうでも思わないと動く理由がなくなってしまう。
それがとても怖かった。
「そっかー。そういやぁ、空に行けるのって聞いてたもんなー蒼姫。蒼って空の蒼なんかな」
「多分そう。…晴は空賊なんだっけ。晴にとっては見慣れた色なんだろうね」
そのつもりはなかったのだが思いのほか皮肉めいた響きになってしまい、思わず蒼姫は口を閉ざした。しかし相手は他人に対しても自分に対しても鈍い男である。明確に棘を感じる先程の言い方ならともかく、今回は特に何も感じなかったらしい。蒼姫の言葉に突っ掛かってくる事もなく、晴は前方の床に開いていた30cm程の穴を軽やかに飛び越した。小さな振動で蒼姫の体も揺れる。
「んじゃあ蒼姫も空賊になれば?俺も境界線より上の世界が見たくて空賊になったんだ」
「…そういう人は多いの?」
「んー?他のヤツの事はよく知んねーけどそうじゃねー?」
「そうなんだ…」
晴の言う事を信じきっている訳ではないが(こう言っては何だが、彼の言う事はその場その場での思い付きをチラチラと感じさせる適当なものに聞こえる為、流し聞く程度で充分だと思った)小さく頷いて緩く目を細める。彼の知っている世界は自分のそれとは違い過ぎて、自分で振った話題とはいえ妬ましささえ感じた。
「…皆自由なんだね。籠とか無縁なんだろうな」
「かご」
「頭悪そうな言い方しか出来ないの?」
「馬鹿じゃねーって!」
繰り返される単純なやり取りはそれ以上続く事はなかった。辛辣さを謝りすらしない少女は、スピードを落とす事なく後方へ流れていく自分達の足元へ緩く目線を落とす。
「私は…気付いたら籠の中にいたの。籠から逃げても結局は連れ戻されて…この塔自体が大きな鳥籠みたい」
「…んん?」
よく分かっていないような曖昧な返事が返ってきたが、元々晴に分かって貰おうというつもりはなかった。理解力に乏しく深く物事を考えていなさそうな彼だからこそ、独り言のように本音を漏らせたのかもしれない。最初から上手い返事など期待していなかったが(そもそも返事自体返ってこないものとして話していた)意外にも前方から話題が繋がれる。
「よく分かんねーけど…同じカゴならソラカゴの方がいーよな。境界線ねぇし」
「ソラ…カゴ?」
「あの灰雲じゃなくてさ、その上の空な。青かったり赤かったり…色んな色見れるんだ」
「空自体が…籠って事?」
「うん。あんまカゴって括りは好きじゃねーけど、あれもでっかい空のカゴみてーなモンじゃん?」
思い付きで話しているかのような言葉は恐らくは誰に習った訳でもなく、『ソラカゴ』という単語も彼が自分で作った造語のようなものなのだろう。深い意味などはなく、しかし何故だかそれは、流されていく事なく蒼姫の心に引っ掛かって止まった。ここから出ても外には更なる籠があるという落胆なのか、或いは――
「そんな事…思い付かなかった」
「そっかー。でもさ、そう考えたらカゴも全部が全部悪いモンでもねーだろ?」
ニシシと歯を見せて笑う横顔を背中の上からぼんやり眺めながら、緩く片手を伸ばす。ぽふ、とその手が着地した場所は緑色の髪の上で、蒼姫は晴の後頭部辺りの髪をポンポンと上から数度押さえ付けた。
「んぇ?何だよ?」
「…晴のくせに生意気」
「は!?何だよ、それー!」
「ソラカゴ知っててずるい。…ねぇ、だから私も」
記憶の為、それもある。
鳥扱いされる事への抵抗、それもある。
ただ、もっと純粋な最初の気持ちは――
「蒼が見たいの。…また見れる?」
「そんなんどうとでもなるっつーの!行こうぜ!俺もあの場所に帰るんだ!」
この単純で真っ直ぐな空色となら、もう一度辿り付ける気がした。
そこから更に先へ、進める気がした。